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イスラム恐怖症は過激なステージへ NZモスク襲撃で問われる移民社会と国家の品格

<ニュージーランドのモスク襲撃事件は、白人至上主義や排他的なヘイトスピーチに対抗する世界的な取り組みが必要であることを示した> 「弾丸に耳あれば発射を断っていたか、または戻ってくるのを選んでいたのかもしれない」とアラブの詩人は言う。しかし、弾丸には憎しみと同様に聞く耳もなければ、止まる理性もない。 3月15日にニュージーランド南部のクライストチャーチで、2カ所のモスク(イスラム教の礼拝所)が襲われ、50人もの罪のない人々の命が奪われる事件が起きた。被害者の中には医者やサッカー選手、小学生もいた。彼らが標的にされた理由は、移民系イスラム教徒だからだ。モスク襲撃の最初の被害者となったアフガニスタン出身ニュージーランド人のダウード・ナビさんはこの事件の象徴的存在になった。ダウードさんは、礼拝所の玄関で「ようこそ、兄弟よ」と襲撃犯に声をかけるとすぐに射殺された。誰に対しても平和の精神を持って接しようというイスラム教の教えが実践されたことの悲しい代償となった。 なぜ殺すのかという疑問については、犯人は74枚に及ぶ、憎悪に満ちた文書に「移民でイスラム教徒だから」とその理不尽な理由を並べ立てている。容疑者のまとまりのない独り言や事実誤認が羅列されたその文書には、イスラム教徒が白人を抹殺するという陰謀論が繰り返されていた。今や世界的現象にまでなった、イスラモフォビア(イスラム恐怖症)がもたらした残忍な犯行だった。 ジャシンダ・アーダーン首相は16日、クライストチャーチを訪問して記者会見し「これはわれわれが知るニュージーランドではない。あなたたち(被害を受けたイスラム教徒)は私たちである」とイスラム教徒への最大限の連帯感を行動で示した。日本と同じ島国で「安全な国」の1つだったニュージーランドでは今も、テロの標的となったことの衝撃が続く。ニュージーランドのイスラム教徒は全人口の1%にも満たないという。「私は、イスラム教徒でニュージーランドの警察リーダーの1人であることを誇りに思う」と、事件後にある女性警官が涙をしながら挨拶する姿に文字通り世界は泣いた。 排他的ヘイトスピーチとの関係 今回の事件は極めて平和な社会で起きた。200の民族と160の言語からなる包摂的な国ニュージーランド。人を歓迎する国というのも世界の定評だ。普段は国際ニュースにもほとんど登場しないニュージーランドでこのような痛ましい事件が起きたのも、多くの人にとって衝撃的だったろう。 ニュージーランドにとっての唯一の救いとなったのは、事件の実行犯がニュージーランド人ではないこと。彼はオーストラリア人である。 地政学的視点からも、事件を考えていく必要がある。今回の事件と欧米諸国で極右勢力が起こしているヘイトスピーチは、全く関係のないものではない。問題の根は深くつながっている。テロの最大の動機は「周りの環境とその社会に対する不満」だとされる。そしてそれを制するのは、一般の人々の「共感」と「否定」の動向だと私は考える。「共感」は一般に良い意味で用いられるが、過激な思想や言動に「共感」するというネガティブなものもある。また、同じように相手を否定することで自分を肯定する排他的ヘイトスピーチもある。人間の基本的感情の一つである「共感」と「否定」は人をまとめることもあれば、人を分断することもできる。場合によって、「共感」と「否定」は紙一重だと言える。 約100人を死傷させた実行犯は、移民、特にイスラム教徒を拒絶する極右過激主義に特有の用語や画像を多用していた。犯人が共鳴している白人至上主義者や右翼勢力は憎悪に満ちた表現や画像を拡散するなどヘイトスピーチ活動をしながら、過激主義だと非難されないように常に正体を偽っていた。しかし、彼らの憎しみはもはや言葉にとどまらず、ますます極悪非道へと傾いていく新たな段階に突入したようだ。そして、彼らの活動を容認する極右の政治的運動や、世論の理解も進んでいるように思える。 反移民や白人至上主義を掲げる欧米各国の極右勢力は、なぜ移民やイスラム教徒に対して憎悪の念を抱くのだろうか。 近年、アメリカやヨーロッパ、今回の事件が起きたニュージーランドでもイスラム教徒の人口が急速に増え、イスラム教徒の移民は現在およそ5000万人と推定されている。 それに対する不安が反イスラム感情や、移民排斥傾向をもつ極右勢力への支持を増やしている。実際、極右勢力は欧州議会などの選挙で、それまでの限定的な存在から一気に議席を増やして躍進している。 これはフランスやドイツなどに限った話ではなく、スウェーデンやデンマークなど、他のヨーロッパ諸国にも広がっている。 「人権尊重」を理念に掲げてきた欧米社会で「反移民」を掲げる大統領や政党が躍進していることは、欧米における過激思想がいかに拡大しているかを示している。 一方、欧米社会が大切にする多文化共生の理念が健在であることは、ニュージーランド人が証明してくれた。事件を受けて、ニュージーランド政府と国民の取った行動は実に素晴らしかった。彼らが見せた包容力と、人間味に溢れる行動には世界の賞賛が集まった。ある意味で、移民と国家の関係において手本となる新たな歴史を作ったと言っても過言ではない。「国家の品格とは何か」と改めて考えるきっかけになったのではないか。 また日本の学校や家庭などではあまり議論されていないように思うが、今回のモスク襲撃は「国と自分の関係、またその絆ってなんだろう」と改めて問う出来事にもなった。 どうすれば「移民」ではなくなるのか ここ数年、「移民」または「難民」という言葉がメディア、政治、経済および文化における議論の多くの部分を占めてきた、そしてこれからも最も重要なトピックの1つであり続けることは疑いない。日本を含む世界のさまざまな国で、政治家だけでなく一般の人々も関心を強めていくだろう。 移民とは「通常の居住地以外の国に移動し、12カ月以上のその国に滞在する人」だという。これは、1997年に当時の国連事務総長が国連統計委員会に提案した定義だ。一方、各国政府が採用している定義はバラバラのようだ。移民に関する正確な情報の把握は困難だが、2015年時点でおおよそ2億4400万人とされている。 では、「移民」を卒業するためにはどんな条件が必要なのか。どのぐらいの年月が経てば「移民」ではなくなり、自国民になれるのか。それとも、永遠に移民のままで生きていかなければならないのか。例えば、国籍を取れば移民ではなくなるのか? それとも、国籍の取得には何の意味も関係もないのか。世界の移民事情を見ると、「~系~人」が主流のようだが、これはつまり国籍取得や帰化をしようが、「移民は移民」ということなのだろうか。 私はあるとき、「どうですか皆さん、私は移民の範疇に入るでしょうか」と学生たちに尋ねてみた。「移民ではないと思います」「外国籍なので移民になりますね」と彼らは迷いながらも必死に考えて、いろいろな答えをしてくれた。さらに「私は帰化しているが、それでも移民になりますか。それとも日本人になりますか」と答えを迫ると、「日本人ではない。国籍取得や帰化をしても」「法律的に日本人になるが、やはり日本人ではない」などと、外国人が帰化しても日本人にはなれないと考える学生が圧倒的に多かった。 ある専門家によれば、昔の移民は一生懸命努力して移住先の社会に適応しようとしたが、今の移民は自分たちの文化を持ち込んで、孤立しながらもそれを守ろうとする傾向が強いという。 私はここで、日本社会は人種差別的な社会、または他者を排除する社会だと言いたいのではない。ただ、我(われ)を知るためには、他者を理解しなければならない。つまり他文化への正しい理解を通して、自文化を再認識する必要があるということを強調したいのだ。 移民というのはどこで生活しようが、しょせん移民だ。そして、その現実をしっかり理解し、人生を送っていくしかない。 今回の事件から、どんな教訓を私たちは得なければならないのか。あの人間の醜い思想を作り上げたものは何なのか、またそれがどういう環境で育ち、広がったのかなどを検証すべきだ。 確かに単独犯による犯行だったが、世界各地に白人至上主義を含む「排他的な過激思想」が広がっているのも事実であり、今回の事件は氷山の一角にすぎない。また、これは対岸の火事ではない。私たちはみんな当事者である。 危険な移民排斥傾向をもつ極右の政治勢力に対して、世界は拒絶の意思表示をすることが必要だ。欧米社会にはこうした思想を追い出す責任があるし、そのような過激思想が栄える環境を作ってはならない。 今はある意味で、単なる人や技術の大移動だけでなく、暴力の大移動が可能となった時代でもある。ニュージーランドが経験した暴力は、別の場所で育ち、移民排斥のイデオロギーを身に付けた人間が持ち込んだものだ。そのため、世界を確実に寛容で安全な場所にするには、この問題を国ごとに考えるわけにはいかない。 世界的な取り組みを呼びかけることも重要な課題となる。 https://newsweekjapan.jp/stories/world/2019/03/post-11897.php

9.11のあの日から17年――「文明の衝突」から「文化の衝突」へ

<米同時多発テロから17年の歳月が経過したが、異文化間の衝突の連鎖は今も続いている> 「9.11」から今年で17年になる。「時計の針が前にすすむと『時間』になります/後にすすむと『思い出』になります」と寺山修司は書いた。しかし、必ずそうなるとは限らない。17年経った今も、あの日の出来事から時計は前にも後にも進んでいないように思える。2001年の同時多発テロ事件を境にさまざまな衝突の連鎖が止まらない。 「われわれの味方か、それともテロリストの味方か」――当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領のナンセンスな発言も思い出す。あれを境に空前のイスラム嫌悪が広がった! そして、それは今も続く。 「文明と文明との衝突が対立の主要な軸である。特に文明と文明が接する断層線(フォルト・ライン)での紛争が激化しやすい」。今から20年以上も前の1996年に、アメリカ政治学者のサミュエル・ハンチントンが、著書『文明の衝突』で指摘した。個人的に96年といえば、「初めて日本に来た」という特別な意味を持つ年である。この「文明の衝突」という言葉が世界に衝撃を与えた覚えがある。そして彼の予言通り、現代のさまざまな問題を見渡せば、世界の諸文明の衝突が後を絶たない状況だ。 いま思えば、ハンチントンの見方は未来への予言ではなく、当時の世界が置かれている状況やその先にある当然の結果を説明したものに過ぎなかったのだろう。つまり、私たちは随分前から文明の衝突の最中にいる。そのためか、争いや対立、紛争等はずっとなくならない。 一方、その反動か、世界を一つにしようとする新たな概念も生まれた。グローバル化だ。それがいいか悪いかはともかく、世界の人々も最初はそれを歓迎した。しかしその後は、「グローバル化」から「反グローバル化」へとシフトしているようである。金融危機が世界を襲うまでは、国境を越えたより自由な経済活動の拡大という楽観的期待の下、グローバル化は人々の生活を豊かにすると信じられていた。しかし今は違う。グローバル化は労働力の移動や移民の流入などで主権国家を脅かし、社会秩序を不安定なものに変えてしまう脅威として見る向きが強まった。 だが、「文明の衝突」にしても、「グローバル化」にしても、あるいは「反グローバル化」にしてもこれらを幻の存在にしたのは、インターネットとSNSの力に違いない。本来なら、ネットを通じて世界中の人たちをつなげることが大きな特徴だったSNSこそが、人々を分断する存在となった。事実や真実を証明することと、自分が信じる事実や真実を証明することは別のものである。だが実際には、大概の人は真実や真実を求めるというより、むしろ自分たちが望む事実や真実を証明することに躍起になる。 そして、その最大の手段となっているのがスマートフォンやSNSだ。今の私たちは、自分の考えや見方など個人の信条を押し通すことに全力を注ぎ、結果として、それぞれがただ勝敗を決めたい一心となっている。もしかして、私自身もこの記事を書くことでそれをしようとしているのかもしれない。悲観的すぎるのかもしれないが、ハンチントンの言う「文明の衝突」は国家同士の衝突から、人間同士とその考え方による衝突へと形を変えていったようだ。ある意味では「文明による衝突」ではなく、人々の生活様式や行動パターンなどの「文化による衝突」が目立つ。ツイッターやフェイスブックなどSNSのさまざまな投稿を見ても、個人個人やその社会が生み出した文化をめぐり、人々は常に衝突を繰り返しているように見える。 一方、人が集まれば、そこに文化も生まれる。国には国の文化、地域には地域の文化、会社には会社の文化、宗教には宗教の文化がある。そして現代社会の傾向としては、文化の細分化が進んでいると考えられる。例えば、同じ民族の人々の中でもさまざまな生活パターンや傾向があったりする。アラブ地域の文化や社会制度ももはや一つではなく、考え方も必ずしも一様ではない。異様なスピードで細分化は進んでおり、同じ共同体や思想であるにもかかわらず分断や対立が後を絶たない。 文化とナショナリズムは見えないところで関係し合うものだ。「本来ナショナリズムとはごく心情的なもので、どういう人間の感情にも濃淡の差こそあれ、それはある」と司馬遼太郎は書く。自分の所属している村が隣村からそしられた時に猛烈と怒る感情がそれで、それ以上に複雑なものではないにしても、人間の集団が他の集団に対抗する時に起こす大きなエネルギーの源にはこの感情がある。 幾多の戦を通し、名将として歴史に名を馳せたシーザー(ユリウス・カエサル)は、人は自分の考えに固持しがちで、自分の都合の良いように世界を見る傾向があることを知り、次の言葉を残した。「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」。 しかし意図的ではないが、人の目に映る物事の姿が文化によって違うことがある。太陽は何色で描くの?――お絵描きに夢中の娘に私は興味津々に尋ねた。真剣に取り合う様子もなく笑みを浮かべながら娘は答える。「赤に決まっているよ」と。「赤か」と予想外の答えに一瞬戸惑いながら、「あ、そう」と無理やりに納得したフリをする。 自分の出身であるエジプトなどのアラブ文化圏では、太陽といえば黄色か、オレンジ色のかかった黄色で描かれることが多い。少なくとも、赤で描くなどは絶対にない。どこにでもあることでも、言語やその社会が変われば、違って見えるということか。日本で生まれ育った娘の”色彩”の世界にさらに興味が高じて、「じゃ、月は何色?」と問い続ける。「黄色でしょう。普通は黄色で描くよ」と娘は自信満々に言う。これもエジプト育ち、またアラブ育ちの私の色彩感覚とは全く異なるものだ。「いやいや、普通は白でしょう。だって、ほら空を見て、月は白く見えると思わない?」と窓に駆け寄って、必死で実物を見せながら自分の”色彩感覚”の正しさを証明しようとする。 どうやら、太陽や月を見て思い浮かべる色は国や地域によって違うらしい。アラブ人の描く太陽の色は、日本人の描く月の色のようだった。同じ地球の太陽と月でも、見る人によって違って感じられる。これは言語学の法則で言うと、「時や場所を越えて物事が同じ性質であっても、それらを認識する仕組みや機能の違いが生じるときがある」ことを示す具体例だ。住む世界は同じなのに、見え方や聞こえ方など世界の感じ方は人により異なる。結果として、言葉や発想などの仕組みの違いをめぐって文化同士の摩擦は後を絶たない。時には、言葉以外のものにまでその過激な摩擦が及ぶ。 そして、最終的にはカエサルの言うように「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」。 今年の9.11は偶然にもイスラム暦の新年と重なる。中東アラブ地域をはじめアメリカやヨーロッパ、アジアなどの16億人に及ぶイスラム教徒は、この日に新たな年のスタートを迎える。今の世界に広がる人間とその文化による衝突に心の痛みを抱えながら、同じ9.11を「悲劇の記念日」と見るか、「新年のお祝い」として迎えるか。2つの「特別な時間」が、今日の世界に見られる憎悪の連鎖にも重なる。 9.11と、衝突の連鎖が起きた21世紀は単なる20世紀の延長ではない。過去・現在・未来を同時に生きなければならない、「複合の世紀」だ。これまでの「文明の衝突」に関する議論が過去中心、または未来中心の、どちらか片方の見解によってなされたとすれば、今後は、過去の中の未来、そして未来の中の過去を、同時に読み解こうと努力していかなければならない。 https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/09/91117.php

イスラム教のイードアルアドハーを「犠牲祭」と呼ばないで

<日本語では「犠牲祭」と訳されるイスラム教の祭礼イードアルアドハーだが、本来の意味は家族や恵まれない人たちと食べ物を分かち合うことにある> 私たちは翻訳という手段を使って、世界の異文化とその知識をすくい上げる。しかし、翻訳とは穴だらけの柄杓(ひしゃく)のようなもの。言葉の意味の全てを一度にすくい上げられないことも多々ある。また、訳語という形式知に変換できたとしても、原語の見えない意味の「暗」の部分がすくい上げられず残されてしまうことも少なくない。 その一例が、イスラム教の二大祭礼の一つである「イードアルアドハー」を日本語に訳した「犠牲祭」である。この訳語から連想されるイメージは決して良いものとは言えない。確かに字義通りでは「イード=祭り、アルアドハー=犠牲にすること」と正しく訳してはいるが、犠牲祭の意味するところは伝わらないのである。そのため、犠牲祭という言葉を発した瞬間に日本人には「怖い」イメージを持たれてしまう。やはりマイナスイメージでしかないこの訳はやめるべきだと私は考える。 世界の訳語は多様で、意味の捉え方もさまざまである。例えば、英語では「Feast of the Sacrifice」(犠牲祭)、スペイン語「Fiesta del Cordero」(羊の祭り)、トルコ語やペルシャ語圏では「捧げ物祭り」などと訳されている。またイエメン、シリア、北アフリカ(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、エジプト)のようなアラブ・イスラム諸国の一部では、「大祭」という名で呼ばれることも多い。私もこの「大祭」という呼び方が、言語的に怖いイメージのある「犠牲祭」に代わる新訳として良いのではと提案したい。そして、「犠牲祭」や「大祭」などのような意訳ではなく、いつかはアラビア語から直接、音訳した「イードアルアドハー」という呼び方に多くの日本人が親しみを覚えてくれるようにと願う。 もちろんイードアルアドハーの本当の意味、つまり「暗の部分」を伝えるには一言では難しいから、今日はこの祝祭について少し書いてみたい。 「イードアルアドハー、おめでとう!」――この時期、街中ではこの挨拶が賑やかに取り交わされる。イードアルアドハーはアッラーに家畜を捧げる祭りである。イスラム教の経典コーランの「アブラハムという羊飼いがアッラーの命じる通りに息子をいけにえとして捧げようとしたところ、アッラーはその信仰の深さを知り、息子の代わりに羊を差し出させた」という話に基づく。 イードアルアドハーは、巡礼が行われるイスラム暦の「ズー・アルヒッジャ月」の10日から13日にかけて4日間続く(イスラム暦は一般的な暦とは異なるので、毎年の開催時期は一定していない)。今年は西暦で8月11~14日だった。 その間は、人々は新しい服に身を包み、友だちや家族連れで行楽地へ遊びに行ったり、互いに訪問し合ったり、祝いの言葉を交わして喜び合う。10日はメッカ巡礼の最後に当たり、巡礼者は動物を犠牲に捧げる。これに合わせてイスラム世界では各家庭でいっせいに犠牲を屠(ほふ)るのだ。 イードアルアドハーの時期、街は羊の「メエ~メエ~」となく声と人々が互いにかけ合う声、走り回る子供たちで大変にぎやかだ。たくさんの人々が羊肉、牛肉を買い求め(日本では考えられないかもしれないが、家庭で羊を丸々一頭さばくのも珍しいことではない)、貧しい人々や親戚たちと分け合う。精肉店はこの時期が一番の繁忙期となる。 毎年、大人も子供もみんなイードアルアドハーが近づくのを心待ちにしている。これは日本の「早く来い来い、お正月」の心境である。家族や親戚と共に過ごし、お互いの絆を確かめ合う時期なのだ。 何年か前、私が取材をかねた帰郷でエジプトに到着した日は、ちょうどイードアルアドハーの前日だった。街の雰囲気は、私にとってまさに「懐かしい!」の一言だった。子供も大人もみんな手をつないで楽しそうに街を歩いていた。そのにぎやかな雰囲気に私も久しぶりにわくわくしてしまった。 街のいたるところに、動物園さながら羊たちの群れがいる。あちこちの肉屋はキラキラとしたモール、ライトなどで飾り付けし、華やいだ雰囲気である。肉屋がきらめいているなんて日本では想像できないだろう。肉を買い求める客が、きらびやかな精肉店の前に列をつくっていたその光景を見て、日本からの取材班の1人は「一体、何が始まるの? なぜ肉屋が飾られているの? アラブの人ってこんなにお肉を食べるの?」とびっくり仰天していた。 百聞は一見にしかず。取材班のメンバーと街の羊市場に行って、羊を買いに来た客に 「どんな肉を選んでいるのですか? 特別なものなのですか」と聞いてみた。すると、「預言者モハンマドのスンナ(言行録)に基づいて、条件を満たした羊(ウドゥヒヤ=捧げるもの)を選ぶのよ。犠牲物(この訳語を使うと怖いいじめの想像が浮かんでくる)を選ぶときは肉の質とかではなく、ちゃんとスンナが決めた条件を満たしたものじゃないといけないの。アッラーのために捧げるものですからね」と教えてくれた。 肉を買うために並んでいる中年の男性にも、「動物の犠牲を捧げる意味は何ですか」と聞いてみた。彼はこう言った。 「この祭りの目的は肉を食べることではありません。イードアルアドハーは、社会全体でやる社会福祉運動のようなものです。羊など犠牲を屠るのは恵まれない人たちや親族などに分け与えるためで、イスラムの精神はまさしくそこにあるのです。恵まれない人に食べ物を分け与え、互いの気持ちをつなぎ、みんな幸せになり、家族や親戚との絆もより強くなるのです。互いを思いやることこそがイスラムなのです」 一生懸命に話す、彼らの言葉に胸が打たれた。形式だけが残る祭りもあるけれど、イードアルアドハーの精神は今でも人々の心に息づいている。食べ物を貧しい人とも分かち合い、共に生きていることを再確認できるのだ。私はそのことに感銘を覚えた。イスラムが大切にするこの精神を市場に立ってかみしめながら、私は久しぶりのイードアルアドハーを思いきり楽しんだ。この原稿を書いていても、その時の楽しかったイードアルアドハーの雰囲気や、街の人たちの話す声、ジュージュー焼いた羊の香ばしい匂いを思い出して、真夜中なのに何だか遊びにでも出掛けたくなってしまった。 「外国人に、イードアルアドハーなんて理解できないだろう」と決め付けているアラブ人も少なくない。だからこのような先入観を覆すような発言や行動をすると、それだけでアラブ人のハートをつかめる。 例えば、さりげなくアラビア語で「イード・ムバーラク」と挨拶してみよう。これは「祝福された祭りを」の意で、この種の祭りのときによく交わし合う決まりのあいさつ言葉。その返事も、「イード・ムバーラク」と返される。 次のような内容のコメントも好印象だ。「助け合うのは本当に素晴らしいことですね」「イードアルアドハーでは具体的な行動で人々がつながることの大切さを、改めて感じますね」 注意したほうがいいこともある。イスラム教徒にとって、人に善を施すときに一番大事なのは、誰にも知られないような形で行うことである。「誰に」「どのように」など、具体的な詳細を明かさず秘密に保つのが、善を施すうえで重要な精神なのだ。例えば、「この間、学費が足りないCさんに金を貸したって?」と聞かれても、アラブ人なら「まあ、まあ、そんなことはいいでしょう」と話を変える。 イードアルアドハーのときも同様。周りの人に知られない形で、恵まれない人や生活に困っている人に善を施すのが重要なポイントとなる。そのため、誰かのそうした行動が話題に上ったときは、質問したり具体的な説明を求めたりするのは避けるのが無難だ。 日本人が気軽に使う「今度おごるよ」という表現も、アラブ人にとってあまり印象のよくないものである。誰かに快くおごりたいのなら、先に宣言する必要はなく、相手が気付かないところでおごる姿勢を取るのがアラブ人の常識。人に何か良いことをしたいときは宣伝するな、ということだ。 イードアルアドハーといえばお肉だが、子供にとって何よりの楽しみはお年玉をもらうこと。もしイード(祭り)のときに友人から家庭に招待される機会があったら、異教徒で外国人のあなたでも、友人のお子さんにお年玉をあげると、あなたの株がぐんと上がることだろう(ちなみに、お年玉のことは「アルイデッヤ」と呼ぶ)。 そのときには「これはあなたのためのものですよ」と子供に手渡す。子供が断ろうとする素振りを見せるのは、行儀の良い子の証拠だが、基本的には「ありがとう」と言って受け取るのが、こういうときの礼儀の一つでもある。 https://www.newsweekjapan.jp/amp/stories/world/2019/08/post-12823.php

アッバス議長顧問「パレスチナ和平に日本も一役買ってほしい」

<パレスチナ自治政府・アッバス議長のナビール・シャース顧問が語る、日本に期待するパレスチナの国家承認> 2週間ほど前、パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長の顧問ナビール・シャース(国際関係担当)が日本を訪れていた。シャースは議長の特使として日本政府関係者と協議を行い、パレスチナ国家の承認を要請した。 シャースはアメリカの大学で学び、70年にパレスチナ解放機構(PLO)に参加。93年にイスラエルとパレスチナがパレスチナ暫定自治に関する「オスロ合意」を結んだ際は、合意文書の作成など重要な役割を果たした。94年に設立されたパレスチナ自治政府では、03~05年に外相を務めている。 そんなシャースに単独インタビューを行い、パレスチナと中東和平交渉の行方について話を聞いた。来日回数が21回に上り、寿司や刺身が大好きだという彼はおおらかでざっくばらん。「何を聞いてくれてもいいですよ」とさらっと周囲を気遣い、物腰も柔らかである。この人柄が交渉力の秘訣なのか。*** ――アメリカがエルサレムをイスラエルの首都と認定した問題では、昨年12月の国連総会でアメリカに撤回を求める決議案が採択されました。パレスチナ和平は世界各国から支持されているにもかかわらず、なぜ一向に進まないのだろうと思ってしまいます。その原因はどこにあるのでしょうか。 「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という英歴史家ジョン・アクトンの名言は国家にだけでなく、今の世界情勢にも当てはまる。世界の権力構造は変化の節目にあり、アメリカ自身も薄々とそれを感じているはずです。かつてお友達のふりをしていたロシアもヨーロッパも、対等に世界を動かせる力がついてきました。世界を動かす力は分散化し、多元的な方向に向かっているということです。そのリーダー候補に名を連ねるのはロシアや中国、ヨーロッパ、それからインドや南アフリカ、ブラジルなど。もちろん日本もその候補の一つです。 この話をすると、みんなは信じてくれないが、経済や文化、軍事などと同様に権力もグローバル化の波に押されて多元化し始めています。もうアメリカの決定一つで世界が回るような時代ではありません。その証拠に、北朝鮮問題への対応やメキシコとの摩擦、ロシアや中国との接近などアメリカを取り巻く動きを見れば、いかにその求心力が低下しているかが分かります。アメリカ自身の混乱を示す最大の出来事は、ドナルド・トランプのような人物が大統領になったことです。アメリカはこれ以上ないほど困った状況にあるのでしょう。 ――今後の中東和平交渉は「アメリカなし」でも「アメリカオンリーワン」でもない、新たな取り組みがささやかれているようですが、これについてパレスチナ側の考えは? アッバス議長の言葉を借りれば、われわれはリスクも取らず、冒険もしません。和平交渉のメンバーからアメリカを外すつもりも、以前のように独占させるつもりもありません。そのことをわれわれは明らかにしていますし、日本や他の世界の国々にも理解してほしい。アメリカを敵対視するとか、仲間はずれにするようなことは決して考えていません。しかし同時に、日本やロシア、中国などが疎外されるような状況にはしたくありません。 パレスチナとイスラエルの和平実現は、多元的な権力の下で進めるべきです。日本もその主導的な立場の一国になってほしい。世界のパワー構造が変わりつつある今だからこそ、自国のためにも一歩踏み出して日本独自の政策の下で新しく出来上がりつつある「ニューワールド」の構築に一役買ってほしいです。 ――しかし、日本は変化するのが難しい国だとよく言われます。 世界がさまざまなレベルで変化しているのは事実ですし、日本もいずれ変わらなければならない。極東の一国で材料や資材を輸入し、製品を作って世界に輸出するという存在だけではその変化についていけなくなるでしょう。だからこそ、変わらなければならないのです。世界で新たなリーダーが生まれ権力構造の変化が進むなか、アメリカだけを頼りにするような考えはもう時代遅れとなるでしょう。 それから、日本はイスラエルを承認しているといいますが、その国境はどこにあるのでしょうか。イスラエルはいまだに国境を画定していない国ですから。パレスチナを承認することは世界や日本にとって重要な意味を持っています。なぜならパレスチナを国家承認することで、中東和平問題に対する国連決議の不履行など、現在、乱れている国際社会の秩序と原則を正しい方向に戻すことになるからです。 日本にはそのことに一役買ってほしい。そうでなければ、いざというとき、つまり日本政府がパレスチナを国家として承認することになったとき、イスラエルの入植活動や侵食によってパレスチナ領土の残りの部分がなくなっているに違いありません。 もはやパレスチナの国家樹立と承認は待ったなしの状況です。日本もそう認識すべきです。もちろん、パレスチナをいきなり承認するのは難しいことはわれわれも理解できますが、段階的な形でもいいですし、フランス議会がパレスチナを国家承認するよう政府に求める決議を可決したように、日本の国会による承認要請という形でもいい。方法はいろいろあります。 ――パレスチナ問題を一言で表現するなら? パレスチナはわれわれの国であり、また手放すつもりは絶対ありません。われわれが望んでいるのはイスラエルを追い払うことではなく、むしろイスラエルとともに平等で平和な暮らしを実現することです。 かつて150万人だったパレスチナ人の人口は現在、国内だけで660万人に上り、海外で暮らす難民を含むと1260万人以上になります。そのうちの160万人がイスラエル国籍を持ち、イスラエル社会の一員として暮らしています。われわれはイスラエルと1つの国で暮らすか、パレスチナとイスラエルの2つの国で平和に暮らすかのいずれかの選択を受け入れ、パレスチナでの和平を実現したいと思っています。一方、イスラエルはパレスチナの全てが自分たちのものだと主張し、われわれの領土をどんどん盗み、われわれを追い出そうとしているのです。 ――トランプ米大統領はエルサレムをイスラエルの首都として公式に認定するとしましたが、パレスチナ市民の反応は極めて冷静だった印象があります。80年代のようにインティファーダーが起こったわけでもない。パレスチナ人の抵抗のスタイルは変わったのでしょうか。 私たちはトランプ大統領とその決定に対して、最大限の表現と行動で「NO」とはっきり拒絶しました。現代史においてもアッバス議長のように、イスラエル首都認定というアメリカの決定を拒絶したパレスチナ元首はいません。 ――今後のイスラエルとの和平交渉で期待できる人物は? 残念ながら1人もいません。かつてはイツハク・ラビン元首相のような平和を愛した人間もいましたが、彼が(95年に)暗殺されてから、またイスラエルでベンヤミン・ネタニヤフが(09年に)政権を取って以降はその面影もありません。 ――日本はかつて宿敵だったアメリカと同盟国となった、数少ない例の1つです。将来、パレスチナとイスラエルが、アメリカと日本のように友好的なパートナー関係を築く可能性はあると思いますか。 もちろんその可能性は大いにあります。かつて、そういう可能性を思わせるところまで近づいた時期もありました。(オスロ合意のあった)93年から96年まではパレスチナ人とイスラエル人が行き来していましたし、ガザ地区とその周りのイスラエル入植地の家族が交流し、お互いの子供たちがホームステイしたりもしていた。平和実現まであと一歩のところでした。 ――日本の若者に伝えたいことはありますか。 私たちパレスチナ人はあなたたちのことをもっと知りたいですし、お互いに知的な関係を築いていきたいと望んでいます。 80年代は、経済発展を成し遂げた日本の話題で世界中のマスコミが湧いていました。それを見た私は、ひょっとして、これから私たちの目指すべき新しいモデルとなるのは日本なのかもしれないと思い、日本に関する本を片端から読み漁り「日本」という国を勉強しました。私は、アラブ人が日本のようなユニークなモデルを検証し、学ぶべきだと昔も今も思うのです。*** パレスチナ人は和平実現を心から望んでいると、想いの詰まった彼の言葉からはひしひしと伝わってくる。司馬遼太郎は著書『この国のかたち』(文芸春秋)で「日本史には英雄がいないが、統治機構を整えた人物はいた」と記している。 今のパレスチナに必要なのは英雄になれる人物よりも、パレスチナ和平と国家樹立に向けたマスタープランを作り、統治機構を整えられる力なのかもしれない。和平実現やその先の自立した経済などさまざまな課題について自ら備えを用意し、多元的権力構造の新たな世界で多くのパートナーとの協力関係を力にして、確実に和平を実現してほしい。

Global Citizen になるとは? 岡倉天心が教える国際化の道

ここ数年、さまざまな分野で「グローバル化」が話題を呼んでいる。大学の世界でも議論が尽きない。グローバル人材、グローバル企業、グローバル社会、グローバル大学などとグローバル絡みの新しい概念が次々と打ち出される今。日本も試行錯誤しながら、時代に遅れないよう必死でついていこうとしている。  一方で日本の若者は、海外留学者数が減少するなど「内向き化」しているという議論が盛んになっている。ブリティッシュ・カウンシルの調査によると、「あえてリスクを負ってでも海外に飛び出し、知力と体力の限界に挑戦してみようとするよりは、日本国内でできることの中から、それなりにやりたいことを探したほうが無難と考える傾向が強まっている」という(田中梓2010)。日本人のハングリー精神はどこへ行ってしまったのだろうか。  日本に来てから今年で20年の月日が経つ。来たばかりのときの全財産は8万円と片道のチケットだけだった。貧しかった学生のころ、東京の酒屋でアルバイトをしていた。まさにギリギリ生活の苦学生。学費を稼ぐのに必死だった。今となってはその苦い日々も懐かしく思い出されるが、当時は本当に大変だった。まさか、日本の大学で日本語や言語学を教えることになるなんて思ってもみなかった。  しかし、私はここで学んだ。自分の視点だけでなく、相手が考える視点をつかむことが政治やビジネス、何においても互いがうまくいく必須条件であることや、世界は自分の国だけで完結しているわけではなく、世界とのつながりで成り立っていることを。  Global Citizenになるってどういうこと? これは何年も前に学生の一人が聞いてきた質問だ。「国民という狭い概念から解放されることです」と私は迷わずに答えた。「国民」という狭い概念から世界の「市民」という概念へ。アジアの市民として、また、世界の市民として、Global Citizen(世界市民または地球市民)を目指さなければならないと思う。  しかし、「国民」という狭い概念を脱する前に、自分のこと、自分の国の強みを知らなければならないと思う。数年前にエジプトのある知識人にインタビューした際に「国際化とは何か」と尋ねたところ、口癖のように言っていた言葉が今も記憶に残っている。「真の国際化に達するには、『国内化』を極めることだ」と。裏返せば、国際化またはグローバル化というのは、国内化をマスターすることから始まるということなのである。  かつて、東洋や日本文化にほれ込んだ岡倉天心は世界とつながろうと思ったとき、日本や東洋の伝統精神文化の奥義を解き尽くそうと『茶の本』を世界に送り出した。「お茶」という自国文化の発想とその精神を通して、世界をあらためて自分の社会と考えて、自分の国のことばかりという偏狭な考えをこえて広く世界、また人間社会全体に思いをいたすことこそ、天心が選んだグローバル化への道だった。日本人としての強みは何か、自分の強みは何か。自分の強みを発見し、それを世界と共有していく自分。それこそ、自分と違う世界や相手と付き合うことにつながる。  Global Citizenになるって、とりあえずそんなところなのではないだろうか! (記事提供:「東海大学新聞」2015年10月1日号)