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ステレオタイプ化するイスラム嫌悪への懸念

事件のたびに弁解を求められる在日イスラム教徒 今回のようなテロ事件が起きるたびに、なぜ、私たちイスラム教徒は狂信者扱いされ、自分たちの信念とは無関係な事件について弁解を求められるのか。結局、一様に「イスラム教は平和な宗教です。あれらの過激派とその暴力とは全く関係ないものなので」などと、決まり文句を並べなければならない。こんな風に感じているのは、きっと私ひとりではない。 「フランスの週刊紙襲撃事件や日本人人質殺害事件などを受けて日本で暮らしているイスラム教徒への悪影響があると思うか?」 一連の事件による日本社会のイスラム教徒コミュニティーへの影響とその今後について、イスラム教徒の知り合いに質問してみた。 「名前を聞かれたけれど、一瞬言うのをためらった。ムハンマドという名前からイスラム教徒であることがばれるからだ」(30歳・学生)。 「よく会う近所のおじさんだけど、いつものように『こんばんは』と挨拶すると、帰ってきた言葉は、『怖いね、イスラム国!日本に入ってこなければ良いけど』だった」(42歳・会社員男性) “平和な宗教”ではないという短絡的なイメージ しかし、私のようにもっと複雑な見方する人もいる。 「怖いのは、ステレオタイプ化による恐ろしい影響だ。人間は日々生活している中で、ステレオタイプな考え方で物事をよく見ている。それは、一個人に対してであったり、国家単位であったりする。今回の一連の事件によって、日本人がイスラム教徒やアラブ人をどのようにイメージするかということに大きく影響すると思う」 見方は様々だ。だが、今の状況で明らかなのは、日本でイスラム教に対する反感やフォビアが進むのではないか、そういう不安を少なからず覚えている。そして、イスラム教は日本人にとって“平和な宗教”ではないと短絡的に捉えられているように感じられる。 紹介すべきイスラム教の視点 メディアや報道機関もこの「過激思想」や「反イスラム感情の拡大」に一役を買っているところがある。テレビや新聞、そしてラジオでも、イスラム教が、イスラム過激思想、イスラム原理主義、聖戦などと、まるでテロ組織の宣伝をしているように報じている。一方、イスラム教の考えの神髄が込められている「コーラン」の考えはほとんど紹介されることがない。 コーランには次のように明記されている。 コーランのこの部分の意味は、「一人を殺せば、すべての人々、つまり全人類を殺したのと同じようなこととみなされる」、これがイスラムの考え方だ。 人を殺すという行為は、どんなイデオロギーの下でも、また、たった一人であっても、それを正当化することは許されない。殺人には、大も、小もないのだ。しかし、こうしたイスラムやコーランの視点について、メディアはほとんど紹介しない。 本屋に並ぶイスラム関係本の異様さ ここで、改めて「ステレオタイプ」の定義を確認してみたい。ある国籍や人種、または性別など、あるカテゴリーに含まれる人が共通して持っていると信じられている特徴のことを「ステレオタイプ」という。 人間は日常生活の中に溢れている膨大な情報を敏速にかつ正確に処理することができない。そこで、人間は情報をカテゴリーに分けて整理する。そして、各カテゴリーへの割当は類似性と差異性に基づいて行われる。つまり、普段、私たちはステレオタイプ化をすることで情報処理を行うという認知的な仕組みになっている。しかも、無意識に行われている。 ステレオタイプに繋がる情報は、決してテレビなどの報道機関のものだけではない。先日、仕事帰りに、何軒かの本屋を回ったが、「イスラム国」関係本の売れ行きが良いため特別コーナーの設置が目立った。 しかし、そこを通りかかる人は視覚的に、二つの情報をほぼ瞬時的に認知処理することになる。一つは、表紙の恐ろしい覆面姿の人がイスラム教徒であること。もう一つは、イスラム=「怖い」、「衝撃」、「過激」ということだ。ただでさえマイナスイメージであるイスラム教のフォルダ(脳の中のフォルダ)が更にアップデートされている。 国民が、テレビ・新聞・雑誌などの報道をどのくらい信頼するか(だまされるか)、を国際比較したデータがある。日本リサーチセンターや米調査会社ギャラップなど、内外の4機関の調査結果によると、日本人は先進諸国で飛び抜けてテレビ・新聞・雑誌などマスコミ報道を鵜呑みにし、信じやすいようである。最も低い英国は14%、その他の主要先進国(ロシアを含め)も20~35%だという。 「決めつけて見るのではなく、よく知ってから判断する」 あまり知られていないことなのかもしれないが、「ステレオタイプ」という用語は、比較的新しい用語で、アメリカ人ジャーナリスト、ウォルター・リップマンによって命名されたものだ。 「我々は、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きく、盛んで騒がしい混沌状態の中から、既に我々が文化や、我々の為に定義してくれているものを拾い上げる。そして、こうして拾い上げたものを、我々の文化によってステレオタイプされたかたちのままで知覚しがちである」(ウォルター・リップマン『世論』) 日本人の人質殺害事件や自称「イスラム国」(IS)の非道な行為によってもたらされたイスラムへの怖いイメージは現在も進行中である。欧州のようなイスラモフォビアではないものの、日本社会にイスラムは怖いという雰囲気が浸透していることも事実である。 大事なことは、「定義または決めつけてから見る、判断する」のではなく、「見て、感じて、調べて、接してから定義し判断する」ことだ。私たちは、そういう人間でありたいと思う。 カバー写真=代々木上原の東京ジャーミィ、新宿副都心の高層ビル街を背に(写真提供=東京ジャーミィ)

日本と世界の時間感覚のずれ:始業厳守も終業はルーズ

世界が驚いたニュース 午後の会議が 5時10分にスタートすることになっていた。出席予定の担当者はいつも通り10分か5分ほど前に着こうとバタバタ急ぐ様子。自分も急ぎ足で向かうのだが、途中で知り合いの一人に“遭遇”して挨拶を交わしたため、1分遅れてしまう。 時間とは不思議なものだ。無限でありながら、有限である。友達との約束や、部活、アルバイト、デートなどの用事とその決められた時間に「間に合わなきゃ!」と日々、時間との戦いを迫られている現代社会。世界中のどの文化においても、目まぐるしい活動を維持するには時間を守ることが大前提(常識)となっている。 そもそも、時間と人間の関係は不思議で分からないものだ。時間は、私たち自身を含む「もの」が動くからこそ認識ができるのであり、言ってしまえば時間という何かが元から存在するわけではないらしい(時間とはなんだろう、松浦壮 2017)。特に日本で人の動き回る速さと流れる時間のスピードは、はやりの言葉を使えば、「半端ないものだ!」。 最も時間に厳格な国民性として世界的に定評のある日本人の時間規律とその異様な感覚を話題にしたニュースが最近、世界各国のメディアに注目されている。中でも関心を呼んだのが「仕事中に3分抜けてお弁当を注文していた」とのニュースだ。神戸市の職員が弁当を注文するため、昼休憩前に3分程度の中抜けをしていたことが発覚し、減給処分を受けたというニュースを英ガーディアン紙や米ABCニュースなど欧米の大手メディアが驚愕(きょうがく)をもって報道した。もしこれが他の国で起きても、フェークニュースと思われるだけだ。しかし、日本においては、本当の話である。 昔は悠長だった日本人 しかし、意外なことに今でこそ日本人のアイデンティティーとなっている時間規律の感覚はどうやら昔は違っていたようだ。 「修理のために満潮時に届くよう注文したのに一向に届かない材木」「工場に一度顔を出したきり二度と戻ってこない職人」「正月の挨拶回りだけで2日費やす馬丁」――。「この分では自分の望みの半分も成し遂げないで、此処を去ることになりかねない」(橋本毅彦・栗山茂久編著『遅刻の誕生』三元社、序文)。 「日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ」。これは、幕末、長崎海軍伝習所教官として派遣されたオランダ海軍のヴィレム・カッテンディーケが書き残した記録『日本滞在記録抄』の一部で、「時間を正確に守る」という日本人の定評を覆してくれる。ふらっと出かけたまま戻ってこない職人、期日通り届かない資材・・・。幕末から明治にかけて日本にやってきたいわゆる「お助け外国人」が日本人の労働者が時間にルーズなことを嘆いているのは、現代人には意外だろう。何だか、現代のアラブや南米の人々の気質の一つとされる悠長さそのものだ。 そもそも、悠長とは「本来、急がなければいけない状況にあっても、のんびりとしてちっとも急ぐことがない様子」という意味だという。お助け外国人にとって、江戸時代の悠長な人々は「早く行動してほしい!」とストレスを感じる存在だったようだ。しかし、一体いつどのようなきっかけで、日本人は時間を厳しく守るようになったのか。 明確な答えは見出せないのだが、現代の日本人の時間への厳しさは、明治から猛スピードで進めてきた現代的工業社会への過剰な適応からきたのではないか、と分析されることが多い。その結果、現代日本ではバスも電車もほとんど決まった時間に来てくれ、私たちの生活のスケジュール管理が素晴らしく保たれている。 日本人はMタイプ、アラブ人はPタイプ しかし、世界を見渡してみると、時間に厳しい文化もあれば、逆に時間に緩い文化もある。その違いはどこから来るのだろうか。例えば、あなたがアラブ地域や南米の出身者と会う約束をすると、彼らは時間に遅れてくることがままある。なぜか? 文化人類学者のエドワード・ハールは、人間社会の文化とその視点によって時間の捉え方が異なると指摘する。時間に対する行動パターンには、Mタイムと呼ばれる「monochromic time」(単一的時間)と、Pタイムと呼ばれる「polychromic time」(多元的時間)の2種類があるとされる。そして、Mタイム型の人は時間に正確なタイプで一度に1つのことしかしない性格を持っているのに対し、Pタイム型の人は時間にルーズなタイプで、複数のことを同時に処理しようとし、人間関係を重視する性格を持っている。 つまり、日本人や欧米人のような文化圏の「Mタイム型」は、時間軸が1つと考える一方、アラブや南米のような文化圏の「Pタイム型」は、時間軸が複数あると考える。そして、「Mタイム型」と「Pタイム型」が接する場面で、文化的摩擦が起きてしまう結果となる。こうして時間感覚を巡る議論では「日本人は時間に正確、南米人やアラブ人などは時間にルーズ」と短絡的な結論に飛びついてしまう人がいる。 日本人に見る時間規律の矛盾 確かに日本人の時間に対する正確性は世界的にも定評があるが、23年に及ぶ日本暮らしにおける自身の経験では、日本人の時間規律の感覚に一つだけ矛盾に感じることがある。それは、「始まる」と「終わる」時間を守る姿勢のギャップである。 M型タイムの文化 一度に一つのことしかしない 型どおりの行動パターン、計画性を重視 タイム イズ マネー 例)ドイツ、アメリカ、日本など P型タイムの文化 複数のことを同時に処理しようとする スケジュールに縛られず、臨機応変に対応 ビジネスは社交の延長 例)南米、アラブ、フランスなど 会社や学校に1分でも間に合わなかったら「遅刻」になる。事情は別にして、当然である。もちろん、こういうときに怒られても仕方がない。これは理解できる。 しかし、会議の終わり時間や勤務の定時を守らない、または意識すらしない行動パターンと精神はどうしても理解に苦しむ。時間の正確さを得意とするにもかかわらず、終わりの時間にはルーズだと言える。そこには、物事の始めと終わりでは、その時間的な感覚に大きな矛盾とズレがあるのではないかと思えてくる。なぜこのような矛盾が起きるのだろうか。 日本人に限った話ではないが、人は常に本来の自分を集団(他者)に見せているわけではなく、集団(他者)に対して自分の望ましい印象を与えようとして意図的に振る舞う。これを社会心理学で自己呈示と呼ぶ。日本人は、この傾向が強いのではないかと思う。 こう見られたいという意図の下、与える印象を操作する。いわば印象操作の一種である。つまり始まりの時間では、集団から悪い印象や評価を持たれないよう、決められたスタートの時間を正確に守ろうとするが、終わりの時間では、時間の正確さより集団メンバーとの信頼関係を優先しているのである。つまり、始まりの時間においても、終わりの時間においても、日本人が一番気に掛けて大切にしようとするのは、周囲や集団からの信用を得ることである。このように日本に根付いている集団と個人との特殊な関係を考えると、どうも日本人は物事の始めはM発想、物事の終わりはP発想ということになる。 どうしてこうなるかというと、日本人は、アラブ人や欧米人と同様に人間関係を重視する一方、信頼も重要であると発想するからである。 働き方「感覚」の改革を 時間は人間の感覚から独立して実在するのか、それとも実在しないのか。物理学的な視点からではなく、文化人類学的発想で考えると、時間は人間の感覚から独立しているというより、一体化し融合しているものだと言える。故に人間の置かれている風土や環境によってゆっくり流れるように感じる文化もあれば、急速に流れているようにも感じる文化もある。…

リスクを好まない国、日本!: 脳のブレーキが生む「おもてなし」精神

無難あふれる日本、成功に懸ける西欧 日本人はどのように現実を捉え、その結果、どのような文化を作っているのか。 「人々の見方とその発想は、彼らの使う言語によって制約を受ける」――著名な言語学者エドワード・サピアの仮説に立てば、四半世紀近く日本で暮らしている私の場合は、日本人と同じ言葉でものを考えるようになった分だけ、生まれ育ったアラブ社会が不思議なものに見えることがある。逆に、アラブ人としては、母語であるアラビア語の感覚が根強く残っていることで、日本人とその行動に違和感を覚えることも少なくない。日本とアラブの二つの文化の間に宙ぶらりんになっているように感じることがある。 日本人は、「リスク」と聞くと、「何か悪い結果を招く危なかしいもの」のように感じるらしい。そのため、ここで生きる人々はなるべくリスクを取らないよう細心の注意を払うことが当たり前になっている。仕事や学校に行く時も、人と話す時も、あらゆる場面で可能な限りリスクのないように行動を律する。結果として、日本社会には「無難」があふれている。 一方、日本の近代化のモデルとなった西洋社会では「リスク」が意味する概念には「計算された行動で、うまくいった場合の成果が大きい」という意味合いが強い。つまり、計算の中に「成功」に懸ける発想が中心となる。これは、悪い結果を招くニュアンスが根強い日本語とは正反対の発想だ。 日本の大学で教鞭を執って15年ほどになるが、学生の行動にもリスク回避気質が表れている。授業にはディスカッションや自分の考えを述べる場面を作り、双方向的な形で展開したいと思っているのだが、学生に意見を求めても、まともに答えが返ってくることはまずない。でも、しばらくすると、教室のあちこちで、隣同士でおしゃべりが始まり、自分の意見を言ったり、論評しあったりしている。意見が無いから私の問いに答えないわけではない。みんなが手を上げないのであれば、自分もそれに従って目立たない方が良いと判断する。日本人お得意の「空気を読む」は、「出る杭は打たれる」リスクを回避するために必要な知恵なのだ。 「楽観」と「悲観」は遺伝で決まる? リスクを嫌う気質故に、日本人は世界で最も投資意欲が低いと言われている。日銀の資金循環統計によると、2018年末の個人(家計部門)の金融資産は1830兆円にも上るが、欧米主要国に比べて、現預金のウェートが高く、株式・投信などのリスク資産の比率が低い。リスクを伴う投資による収入がネガティブに捉えられるところによる影響が大きい。だから、政府がいくら旗を振っても、「貯蓄から投資」がなかなか進まないのだ。こうした、日本人のネガティブ思考の背景にはどうやら遺伝的な要素が関係しているようだ。 米国の名門大学の一つであるウェルズリー大学の心理学者ジュリー・K・ノレムの研究によれば、人間の心的傾向(メンタリティー)は「防衛的ペシミスト」と「戦略的オプティミスト」の2種類に分類することができるという。防衛的ペシミストは、どんなに成功を積み重ねても「次は失敗するかも」とネガティブに考える。一方、戦略的オプティミストは確たる根拠が無いのに、「次は絶対できる!」と前向きに考える。 防衛的ペシミストになるか戦略的オプティミストになるかの鍵を握っているのがセロトニンという物質であるという。セロトニンは脳内にある神経伝達物質で、これが十分にあると安心感や、やる気につながり、少ないと不安感やイライラの原因となる。セロトニンを脳内で運搬する役割を担っている「セロトニントランスポーター」と呼ばれるたんぱく質の遺伝子型によって、セロトニンが十分に行き渡るかどうかが決まるというのだ。 セロトニントランスポーター遺伝子には少ししか運べない「S型」とたくさん運べる「L型」がある。遺伝子は両親から1つずつもらうので、SS型、SL型、LL型の3つの組み合わせになるのだが、日本人はSS型が7割近くを占め、LL型は数パーセントしかいないという。つまり、脳内でセロトニンが十分に活用されず、ちょっとしたことで不安になったり、悪い結果を予想したりしがちな「防衛的ペシミスト」集団が日本という国だということになる。 「和」の精神は脳ブレーキの働き 誤解のないのように断っておくが、「戦略的オプティミスト」の方が優れているとか、「防衛的ペシミスト」は成功できないということではない。ノレム氏の著書のタイトル『The Positive Power of Negative Thinking(邦題「ネガティブだからうまくいく」)』が示すように、ネガティブな思考がポジティブな力を生み出すことがある。「失敗するかも」「この先、何かしらの障害が待ち受けている」と考える人は、慎重に計画を立て、軽率な行動で混乱を招いたり、周囲の人に迷惑をかけたりしないようにする。相手にも最大限の配慮をするので、人との信頼関係も築きやすい。こう考えると、「防衛的ペシミスト」という気質が、日本人の勤勉さやまめな仕事ぶりの源泉だと言えるのかもしれない。 人間の脳は、願望や欲求などを満たすための「アクセル的な働き」と、それらを抑制する「ブレーキ的な働き」の二つの働きによってコントロールされているそうだ。 「アクセル的な働き」は人間が生まれたときから本能を司る脳の部分であるのに対して、「ブレーキ的な働き」は、成長の過程で人間が身につけていくものである。「出る杭」になることを避けようとする日本社会においては、「ブレーキ」が特に重要な意味を持つ。 言語の特色にもその影響が見られる。「〜なのではないか」「〜のかも分かりません」「〜と思われる」などのように断定せず、曖昧で無難な表現を選択することが「良し」とされる。気持ちや表情の抑制も日本らしい文化の一つとされている。人前で強く感情を示すことなく、悲しいときや動揺しているときに自らをコントロールする強い意志を見せるのも、日本人の気質の一つである「気丈」のおかげだ。 日本の「和」の精神の根幹を成すのも脳の「ブレーキ的働き」である。社会のニーズを成り立たせるためには、村人が自らのニーズよりも、村社会全体のニーズを考え、他の人々と行動を共にして稲を植え、収穫をしなければならない。これも日本人が得意とする脳のブレーキ的働きによって可能となる。このように例を挙げたら切りがないほど、脳の「ブレーキ的な働き」が日本人の行動パターンの標準となっている。 ネガティブとポジティブは等価値 これらの「ブレーキ的働き」によって生まれる行動パターンこそが、相手への思いやりや配慮として現れ、日本人の「おもてなし」の精神を生んだとも考えられる。しかし、それは言ってしまえば、日本人は誰よりも周りの人のことを考えて思いやることや、人をもてなすことに長けていると言えるかもしれない。 「グローバルスタンダード」が求められる今の世の中、西欧型の戦略的オプティミストがもてはやされ、物事を前向きに捉え、願望や欲求を率直に表すことこそ成功への道であるかのように思われがちだ。しかし、文化や風土、あるいは遺伝子による制約によって、誰もが戦略的オプティミストになれるわけではない。それを悲観する必要はないのだ。ネガティブとポジティブ、また、脳のブレーキ的働きとアクセル的働きは太陽と影の関係のように等価値であり、切っても切れない関係なのではないだろうか。 そう考えるのは、私が、防衛的ペシミスト社会にどっぷり漬かっているからかもしれない。 バナー写真:PIXTA

「一個のおむすび」と浅草花やしきで平和について考えた

<中東では日本の現状からは想像もできない戦乱が続いている。子どもたちを連れて訪れた遊園地で筆者が教えられた、平和へのヒントとは?> 先日、本屋で面白い本を手に入れた。あまりに面白いから、皆さんにその本を紹介したいと思う。「朝のかたち」(角川文庫)で、詩人の谷川俊太郎さんが書いた詩集だ。 あそこでは そうあの廃坑になった町では おべんとうのある子は おべんとうを食べていたそして おべんとうのない子は 風の強い校庭で 黙ってぶらんこにのっていた その短い記事と写真を 何故こんなにはっきり 記憶しているのだろう どうすることもできぬ くやしさが 泉のように湧きあがる どうやってわかちあうのか 幸せを どうやってわかちあうのか 不幸を 手の中の一個のおむすびは 地球のように 重い (「おべんとうの歌」) 谷川さんの言葉はミクロの世界から見事にマクロの世界へと飛び、何だか「人ごとだと思えない」と感じずにいられない。 「カタールからアルジャジーラのニュースをお伝えします」――私は毎月数回、NHK・BS放送のニュース番組で、世界をしばしば震撼させるアルジャジーラニュース(アラビア語ニュース)を日本語に直して伝える仕事に携わっている。職種は、放送通訳という特殊な通訳業である。映像を見ながら翻訳原稿を書いているときは、ほとんど時間がなくて、ご飯もおにぎりか何かで済ませることが多い。 そんな慌しくせっぱ詰まった状況の中で、少しでもアラブの生の声を伝えようと翻訳作業に取り掛かるのだが、アルジャジーラが流す映像を見るたびに、いつもどん底に突き落とされたような無力さを感じる。 そこで谷川さんの言葉が頭に浮かんできて、「どうしたらいいのかな」と自問。映像の向こうで必死に危険を逃れようと逃げ回る人々や子供たちの姿と、高層ビルの一角で平穏に「おにぎり」を食べている自分の姿は、まるで谷川さんのあの詩だ。人と人が、幸せ、または不幸を果たして分かち合えるのだろうか。 しかし、こんな世の中でも平和を噛み締め、その意味について改めて考えさせられる瞬間がある。そして、そんな瞬間に出会った場所は意外に思われるかもしれないが、日本最古の遊園地「浅草花やしき」の中であった。 夏休みということもあって最愛の娘と仲の良い学校の友達を連れて、3人で「花やしき」へ遊びに行ったときだった。乗り物に夢中になっている娘とその友達を見守っていると、「ハナハナ海賊団」のステージショーが始まるというアナウンスが流れた。すると、たちまちステージの前とその周りは子供やその家族の観客で溢れ返っていったのだ。 夏の限定企画として「花やしき一座」という劇団が披露する物語だが、その内容は至ってシンプル。悪人である「海賊」と善人である「宝物の守り人」が戦う、という定番の「善と悪の戦い」の物語なのだ。ミュージカル的な演出と、愉快でコミカルな演技が人気を呼んでいるのだとか。 とはいえ、「海賊」と「守り人」が激しく戦う場面も見ものの一つとなっている。そして、ステージ上で個性的な衣装に身を包んだ役者の軽やかなダンスステップとスピーディーに進むストーリーの展開にみんなが釘付けになっていた。 いよいよ「善と悪のどちらが勝利するのか。『宝物』」は守り人たちが守り通せるのか」というクライマックスのシーンへと進む。こういう「善」と「悪」が戦う物語の通常の展開で言えば、最終的には「善」が決まって勝つ……というのは万国共通の結末だろう。ところが、「予想外」のまさかのエンディングになっていた。 なんと、これまで勇ましく懸命に戦ってきた「宝物の守り人」が争いの元となっていた宝物を海賊と分けることにしたのだ。意外な展開に動揺するばかりの私であったが、彼らは幸せを分かち合うというのである。 最後には、「争いを終わらせよう、共感こそ大切」などのような意味のセリフを海賊と守り人がそろって歌いながら、ストーリーが終わりを迎える。そして、「宝物はそもそも人に幸せを与えるためにある。であれば、海賊と分ければ、みんなで幸せになれる」と「宝物の守り人」は言う。おそらく世界のどこを探しても、こういうストーリーの設定、エンディングは見つからないだろう。 現実にはあり得ない話であろうが、「たとえ相手が敵であっても、他人と共感できなければ幸福にはなれない」ということだろう。私は「子供向けの話か」と思いながらも、平和への道となるヒントを教えられたような気がした。

超訳コーランの言葉で幸せの指南

<日本人にとって宗教はマイナスのイメージが強いが、イスラム教の経典コーランの中から日常生活にも役立つ一節を超訳で紹介> 日本で暮らしているとあまり実感できないが、生活の中で宗教が大きな意味を持っているという人は世界にたくさんいる。一方、当たり前だが、他国の文化や宗教を自国の尺度で見ようとすると、訳が分からなくなる。そして他文化や他宗教を理解するとなると、司馬遼太郎の言うように、「他国を知ろうとする場合、人間はみな同じだという高貴な甘さがなければ、決して分からないし、同時にその甘さだけだとみな間違ってしまう」。このあたりも、人の世の常である。 文化や宗教は、あらゆる歴史的事情とその出来事の下で集積されてきたものの結果だと考えられている。その文化と宗教は、無限とも言えるほど多くの破壊的事情を経験し、1つの枠の中に存在しながらも、互いに衝突や矛盾をし合っている。その矛盾やずれを整え、またその中に混入した異物や本質でない要素を取り払って、原形のようなものを取り出せないかという思いが最近、自分の中に増していくばかり。 イスラムの原形とは何か? その原形を取り出して見せることは可能なのか? そう考えたとき、真っ先に頭に浮かぶものはコーラン(イスラムの聖典)の存在である。 「イスラムの原形」や「宗教」という言葉を使うと、読んでいる人を必要以上に緊張させてしまい、「なんだか小難しい。やめとこ、やめとこ」と避けられてしまいそうである。 そこで、私が教えている大学で学生たちに質問してみた。「『宗教』という言葉はどの言語にもありますね。みなさんがそれを聞いたとき、マイナスの印象を持ちますか? それともプラスの印象を持ちますか?」 85人のうち3人だけが「プラスの印象を持つ」と答え、残りの82人は、迷わず「マイナスの印象を持つ」と答えた。圧倒的なマイナスイメージである。さらに、「なぜマイナスの印象を持つのか」と聞くと、「信じるものがなければ生きていけないようだから」「精神的に弱い感じがするから」という予想外の答えが返ってきた。 どうやら「宗教」という言葉とその意味合いは、イスラム教徒、とりわけアラブ人と日本人とでは根本的に違っているようである。このときの学生たちとのやりとりから、私には次のことが分かった。 日本人がイスラム教をとらえるとき、日本語の「宗教」という言葉を通して判断し、評価しているということだ。「宗教」と聞いただけでマイナスの印象を覚える日本人と、「宗教」という言葉に信頼や敬い、道徳などを連想するイスラム教徒は、どのようにしてコミュニケーションを取ればいいだろうか。 そこで、コーランの言葉を原文ないしは日本語訳で読んでも意味がつかめない人のために、私はある試みに挑んだ。コーランの数々の章の中から、誰にでも分かりやすそうなものをセレクトし、現代風に超訳することだ。いつの時代に読んでも、何歳になってもハッとさせられる、コーランの珠玉の言葉を超訳でここにご案内しよう。 「嫌なことこそ、良いことを運んでくれるかもしれない。また、好きなことこそ、悪いことを運んでくれるかもしれない」(雌牛章205) イスラム教徒が日常生活の中で繰り返し使う言葉であり、全ての物事には「定めがある」という意味になる。分かりやすくするために、日常生活でこの言葉の意味が現れる場面を挙げてみよう。就職しようと思ってもなかなかできず、また断わりの手紙が届いた。また就職試験に落ちた……残念。たいていのアラブ人はこうつぶやく。「もしかしたら、この嫌なことこそ、自分にとって良いことにつながるかもしれないな」 一方、同じ場面で日本人だったらどうなのだろう。例えば、「あんなに事前に準備だってしたし、面接の受け答えだって良かったはず。もしかして自分の外見が悪いから就職できなかったのだろうか。それとももっと積極的に発言すべきだったのか。通勤時間がかかりすぎることも関係しているだろうか。こんなんだから彼女ともうまくいかないんだろうな~。就職が決まらないなんてカッコ悪いし、親にも紹介できないなんて思うのかな~」と考えたりするのではないか。 就職試験に落ちた理由など知ることはできないのに、自分の想像だけでどんどん深みにはまっていく経験は誰にでもあるだろう。または物事が予定通りにいかなかったとき、怒りをぶつける先がなくて他人を責めたり、自分や周りに失望したりして、なんとか失敗の犯人を見つけようとすることもあるだろう。でもそんなことをしても、かえって傷を深めるだけだったりする。 アラブでは不幸や不都合な出来事が身に降りかかったとき、「なんでこうなる!」と怒りの反応をみせた後、「もしかしたらこの嫌なことこそ、自分にとって良いことにつながるかもしれない」とすぐに前向きに考えようとする。 そうすると気持ちが落ち着いてくる。そして、「まあ仕方ない。そうなるようになっていた。自分はやれるだけのことはやったさ。次に進もう」と思える。 もちろん、自分がやりたいことがかなわなくてもいい、と思う人はいない。しかし、この考え方をもって生活すれば、日常生活のさまざまな場面や物事をあるがままに受け入れることが身に付いてくる。どんな大変な場面でも、何があっても、「仕方がない」と前向きに、悪く言えばのんきになれるのだ。 問題のない人生などありえない。だから幸せな人生を手に入れるには、問題の全てが消えるまで待つのではなく、その問題を受け入れて前向きな姿勢で臨む──これがイスラムの原形が諭す、イスラム流の生き方である。