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日本の教育の価値を考える “Think different”

「この国のあらゆる社会階級は比較的平等である。金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。本物の平等精神、我々はみんな同じ人間だと心そこから信じる心が社会の隅々まで浸透している」(藤原正彦『日本人の誇り』[文春新書、2011年]) これは著名な日本研究者として知られているイギリス人学者バジル・チェンバレン先生(1850~1935)が残した言葉である。そして、日本は、今もその平等精神を実感できる社会であり続けている。しかし、日本における“平等の精神”の元となっているのは何なのだろうか。 日本における「平等」と「教育」 私は福沢諭吉のある言葉を思い出した。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」 「人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」 時は明治時代。ベストセラーとなった『学問のすすめ』という作品で、福沢諭吉が記した言葉である。 日本社会の平等精神、そしてその元となるものは、どうやら「学問ハ身ヲ立テルノ財本だ」という哲学だったのではなかろうか。140年ほど前に書かれたこの作品で、国の未来を拓くのは、経済発展でも、資源開発でもなく、「知識」とその担い手の育成であると、福沢はすでに悟っていたのである。 福沢の深い言葉を読み返しながら、私は今のアラブ世界の混沌とした状況を考えずにはいられなかった。 アラブ諸国に日本の「知」を求める競争 気がつけば、日本に来てから今年で18年目になる。「早いもので」と言いたいところだが、早く感じるほどの月日ではなく、自分にとってまさしく波瀾万丈の18年だったのである。想像を遥かに超える事態に翻弄された最初の十年は苦労しながらも尊いものだった。その後も、様々な巡り合わせがあり、私はここにいる。 そんな私のところに、今勤めている大学からある依頼が舞い込んだ。アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビで開催される「ナジャーハ」という留学&高等教育フェア(主催はUAE政府)で、東海大学や日本の教育を紹介してほしいというのである。 かつて、人類の長い歴史のなかで「知」の発祥の地として名高かったアラブ世界の国々は、かつての栄光を取り戻そうと躍起になっている。探し求めているのは、これまでのアラブ世界とは違い、欧米型の成長や教育モデルとも異なる新しいモデルだ。そして、多くのアラブ諸国がたどり着いたのが、日本型の成長や教育モデルである。 そう、今では多くのアラブ諸国が日本の「知」を手に入れるレースをスタートしている。その結果、アラブ世界で急激に日本熱が高まっている。特に、アラブ世界の熱い眼差しの先にあるのは日本の科学技術であり、その習得の過程である。 日本が世界に届けたい教育とは何か? アラブからのラブコールに対して日本もまんざらではないようだ。国際化の波に乗って、日本政府や高等教育の関係機関が日本の「知」を世界に届けようと必死になっているのも事実である。そして、「2017年までに留学生30万人を増やす」という壮大な計画を打ち出し、世界中から多くの優れた留学生を受け入れようとしている。 しかし、日本はどんな教育を売ることができるのだろうか。つまり、留学してまでの価値は何かということである。 アブダビで開催されたフェアには日本から10を超える大学が集まり、それぞれの特色や教育モデルを力強くアピールした。しかし、訪れた人たちの反応を見ると「今ひとつ」というような印象が強く見えた。「地理的距離がある」「言語が難しそう」など理由はいろいろあるにせよ、欧米諸国ではなく「遠い日本」にまで留学しようという気持ちにさせるほどの価値は見えなかったのだ。 日本自身が世界に届けたい教育にはどんな価値があるのかについて改めて考える必要があると思う。

日本の教育の価値を考える “Think different” Part 2

エジプトにいた頃、私の住んでいた街にサンドイッチ屋さんがあった。値段も手頃で、そこそこの人気。店自体が屋台に近い作りで、カウンターの中にキッチンがあり、その中で店主がハンバーガーを焼いてくれる。味の方はというとまあ普通。人によってはまずいと言うかもしれないが、私はなぜかその店が好きで、ほぼ毎日通い詰めていた。好きだったのは店主の面白い話、おまけで付けてくれるうまい漬け物だった。 もし今、その店の魅力について「本質価値」と「付加価値」で評価するとしたら、本質価値の部分では他の店に負けているかもしれない。だが、付加価値の部分ではきっとどこにも負けていない。もしかすると店主のおしゃべりと漬け物の戦いでは他を圧倒するかもしれない。 日本で学ぶことの付加価値とは? 本質価値と付加価値という問題はかなり複雑で、一筋縄ではいかない。教育もそうである。 科学技術の頂点を極めた日本は、身につける技術やノウハウといった教育の本質価値の部分では世界の誰にも負けない存在である。しかし付加価値ではどうなのだろうか。そして、その付加価値は世界に伝わっているのだろうか。 「日本で学ぶことの付加価値って何?」 外国機関や外国人にこう聞かれたら、日本の教育関係者は何と答えるのだろうか。おそらく多くの方が分かっていないことのひとつだと思う。 そもそも付加価値とは、「何らかのモノを使って新しいモノを生み出すと、元々のモノより高価値なモノとなる」ことを意味する。例えば、日本の科学技術は大変優れていると世界的にも定評があるが、科学技術が優れている国は決して日本だけではない。他の国とは違う、日本ならではの「何か」があるはずだ。 もし私が「機械工学」を日本で学ぶことになったとして、自分の国や他の国で学ぶのと日本で学ぶのはどこが違うのだろうかと考えたとき、日本ならではの「何か」が見えてくるはずである。 留学生たちが日本人から学んだもの 「日本に留学して良かったと思うか。また、その理由について教えてください」 留学生の友人や知り合いにこの質問をぶつけてみた。ありきたりの質問だが、その人が何を学び、また何を望んでいないのかがよく分かる。 筆者が得た留学生の声をいくつか紹介しよう。 「自分はサウジアラビアにいたとき、自分の発言や行動を他人がどう思うか、そんなに気にしていなかった。日本人がそれを一番に考えて行動していることを知って、世界を自分の目からだけでなく、他人の目からも見るようになった。結果、自分をコントロールすることを学んだ」(サウジアラビア人留学生・理工学部在学) 「日本人は、結果より過程を重視している国民である。『頑張れ、頑張れ』といつも言っているのもその精神性の現れだと思う。日本のモノづくりにおいても、結果より過程が一番大事な要素だと学んだ」(UAE人留学生・工学部在学中) 「論理的な考えや理屈だけで相手を説得しようとする欧米型コミュニケーションとは違うタイプのコミュニケーションが日本にはある。留学期間、日本人との議論や関わり合いを通して学び、その結果、自分の考えを通すことより相手との気持ちのやりとりを重視するコミュニケーションスタイルが身についた」(エジプト人留学生・人文科学系大学院生) 日本人の“精神性”こそ付加価値 日本で学んだ経験のある留学生の声は様々なのだが、彼らの見方で明らかなのは、科学技術などといった日本教育の本質価値以上に、和、礼、信、忠、美など日本人ならではの精神性という付加価値的な部分に対する関心の方が大きいようである。 日本政府が決定した留学生誘致と大学の国際化戦略「留学生30万人計画」では、日本の大学が国際教育のイノベーションを起こすことが重要なキーワードとなっている。しかし、イノベーションの具体的なイメージがわかないという大学も多いだろう。 そもそもイノベーションとは付加価値を新たに創出することだと、私は考えている。「英語」という安価な原材料を使って、日本ならではの「大学教育」という高額な商品を作り出せば付加価値が高くなるというわけではない。「日本留学」という商品を買ってくれた世界各国の「留学生」の生活を豊かにするような新たな価値を創出しなければならないのである。他国では得られないような価値を創出することが、今、日本の大学や教育現場に求められている。

オバマ訪日に思う安倍首相と日本のマスタープラン

オバマ米大統領が訪日し(2014年4月23~25日)、日本政府は招聘の最高ランクである国賓として盛大に大統領を出迎えた。18年ぶりの米大統領国賓待遇には「日米蜜月関係復活」をアピールしたい日本の思惑が明らかだ。オバマ大統領も日本の要望に応じて、滞在日数を一日延ばすことを承諾。これは、これまでで最大の滞在日数となった。 “対等”には見えない日米関係 共同記者会見を終え、握手を交わす安倍晋三首相とオバマ米大統領。写真提供=時事 3年半ぶりの大統領訪問に日本はもちろん世界各国のメディアも盛り上がった。新聞やテレビなどあらゆるメディアがオバマ大統領訪日の様子をきめ細かく報じた。安倍首相が、ありとあらゆる「おもてなし」を使ってオバマ大統領の機嫌を取ろうとしている様子も鮮明に映し出されていた。 最近の日米関係を男女関係で例えるなら、「すれ違うばかりの仲」だった。米国という「女性」に対し、「男性」である日本が今回の訪問を機に関係を修復させようと懸命になるのも無理もない話だ。寿司屋で食事する場面など両首脳の親密さを象徴する映像を眺めても、第三者であるアラブ人の私の目には、日米同盟の現状が対等な関係には映らない。確かに日米同盟は日本に平和と繁栄をもたらしたが、恋愛で求められるのは対等な関係。彼氏または彼女に依存してしまう関係というのは最終的にはウザがられて終わるだけだ。まるで、アメリカの言いなりになっているように見える日本……だが、そう単純な関係ではないと私は思っている。 「ナショナリズムアレルギー」に陥った日本 オバマ大統領訪日に絡んで、日本のメディアでは安倍首相のアジア外交戦略が大きく取り上げられた。靖国参拝や歴史認識問題などの言動が批判の的ともなり、首相の言動が日米同盟にも暗い影を落としているとの見方までもがメディアや評論家の間で広がっているようだ。 「脱戦後レジーム」「美しい国」「再チャレンジ」などをキーワードに首相が掲げる構想をナショナリズム的思考だと厳しく指摘するメディアや評論家も少なくない。長い間平和教育を受け、戦争に対するトラウマを植え付けられたせいなのか、何だか一種の「ナショナリズムアレルギー」のような状態だ。 安倍晋三首相は先日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、戦後70年が経つ中で、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。その上で、「日本は平和国家としての道を歩み続けてきたが、憲法自体が占領軍の手によって作られたことは事実だ」とも答弁している。 首相の「脱戦後レジーム」とは、何を意味するのか。その中身がまったく見えないという点では危険なのかもしれないが、日本を独自の方法で見つめ直そうとしているのは間違いではない。 求められるのは「日本のかたち」を整えるマスタープラン 米国は“相手のことをよく勉強する国”として定評がある。かつても、そして今も日本のことをよく勉強し、日本人のマインドとその扱いに慣れている。日本はどこに向かっていくのか、安倍首相自身は日米同盟で何を目指しているのかなど、日本国民には安倍首相のマインドが読めなくても、米国には読める可能性が高い。 米国が武力を行使するのは、自らの国益が致命的な侵害を受ける恐れがあるときだけだ。自国の領土を自国以上に守ってくれる同盟国など存在しない。これらの事実を安倍首相も間違いなく知っている。だからこそ、日本には自分で自分を守れる備えが必要だと認識し始めている。ただ、それを可能にするのは、日本人をひとつにする“マスタープラン”なのだ。こう考えると、安倍首相が「美しい日本」や「脱戦後レジーム」などで作ろうとしているのは「日本を再生する」ためのマスタープランなのだと分かってくる。 司馬遼太郎は著書『この国のかたち』(文芸春秋)で「日本史に英雄がいないが、統治機構を整えた人物はいた」と記している。安倍首相も英雄にはなれないとしても、日本のマスタープランを作り統治機構を整えられる力があるのかもしれない。防衛や経済など様々な課題に対し自ら備えを用意し、アメリカとの同盟関係を踏み台に、より自立した国としての新たな次元を目指そうとしているように見える。 いずれにせよ、アメリカを後ろ盾にマスタープランを完成させるのが急務だと私は考える。

ラマダン カリーム! “断食”こそ恵みへの感謝

心待ちする寛大な断食月 「ラマダン、カリーム!(恵み多い月ラマダン、おめでとう)」……夏の時期、街中でこのあいさつが賑やかに取り交わされる。それもそのはず、みんなが待ちに待った寛大な断食月「ラマダン」がやってきたのだ。 イスラム世界の全地域は、イスラム暦9月(西暦7月)に、一大行事の「ラマダン」(断食月)を迎える。これを受けてまもなくイスラム世界、とりわけアラブ世界はどこもラマダン一色となる。ラマダンによる断食(サウム)は1カ月も続くことになる。もちろん断食といっても、24時間、30日も断食し続けるわけではない。断食は毎日、夜明け前から日没までの間だけである。 イスラムのカレンダーは「朔望月(さくぼうげつ)」(※1)に合わせているので、1年ごとに太陽暦とは12日ほどずれが生じる。そのため、ここ数年のラマダンは夏の時期と重なってしまっている。この時期、気温が40度を超える地域も少なくないアラブ地域で、1日16時間以上も食べず、飲まずに過ごす。ヨーロッパ(夏の場合)など、19時間以上も断食する地域もある。その過酷さが想像できるだろうか。 空腹のあとにしみわたる食事や水の“おいしさ” 「お腹すいたなあ。どうしようか」。時刻はすでに午後4時を回っている。 「昨日、夜中に起き損なったのは大失敗だった。スホール(断食開始の前の食事のことで日の出前に断食に備えてフルーツジュースや暖かい紅茶、ヨーグルト、パンなど食べる)を食べられなかったからだ。でも、ガマン、ガマンだ。もう少しで食事の時間が始まる」 断食の1日が終わる時間にさしかかったころには、「お腹すいた、お腹すいた。ほんとにお腹すいたな~」とばかり考えてしまう。お腹が不平不満を訴えているような幻聴まで聞こえてくるような気がする。実際、最後に何かを口にしたのはもう11時間も前なのだ。 しかし16時間以上空腹な状態で、断食が明けて初めて口にする飲み物、食べ物の味や香り、それはもう格別である。特に水は格別においしく感じる。水の一滴一滴が身体にしみわたってくるような感覚だ。もちろん、この水の豊かな感覚は断食明けが一番である。 1日中、腸の中に食べ物が入っているという現代人の生活習慣は、身体にとってかなりの負担となる。断食をすると、腸が消化吸収の働きから解放されて、浄化される効果も抜群である。断食の経験のない方でも健康上に理由がなければ断食を一度くらい経験してみるとおもしろいような気がする。本当にお腹がすいたときに食べる食事、本当にのどが渇いたときに飲む水のおいしさ。これは普段いつでも好きなときに食べられる日常を過ごしているとなかなか体験できないことだ。 断食で断つのは“悪行”や“悪態” 普通、「断食」と聞くと何を連想するだろうか。「明け方から日没まで、食べず、飲まずに過ごすなんて大変で嫌だ。どうしてそんなことしなければならないのか」と、まず疑問に思うだろう。 あるアラブの知識人の話によれば、「断食という行為は、世界のさまざまな宗教に見られるが、イスラム教の場合は、物理的に飲食を絶つだけでなく、悪態や、社会や他人に害を与える行為を絶つ。これこそが、イスラム教が考える断食の本当の意味なのである」という。イスラム教徒がみな、このような精神を忠実に実行しているかどうかは別にして、イスラムの普遍的な哲学がそこにある。 多くの人は、食事を毎日3食規則正しく食べるべきものだと考えているから、「断食」と聞くと何だか“苦行”のようなものを連想するのではないだろうか。まあ、そう思うのも無理はない。 しかし、実際の「断食」はお祭りである。「ラマダン(断食月)」の時期に特別な思いをはせるイスラム教徒にとっては、ラマダンといえば、心待ちにしている楽しい行事である。仲間が集まり、おいしい料理をたくさん食べる。夜はライトアップされ、嬉しい、楽しいことが目白押しの日々が始まるのである。 日没後の食事はお祭り、家族の団らん 断食が明ける時間である日没の30分前は、家も外の町も慌ただしい。日が沈むにつれてみなそわそわとして落ち着かない気持ちになる。 子どものころ、私にとってその日没前の慌ただしい時間はいつも心躍る特別なひと時だった。食事の支度に母親がキッチンで張り切っている姿、フルーツたっぷりの創作ジュース、香ばしい香りのする焼きたてパンの買出し、お祭り用の特別な焼き菓子、ケーキ、家路を急ぐ人たちの姿など、家族みんな街中の人が忙しい。まもなく断食の時間が明け、家族の団らんが始まる。 ラマダンの断食月は毎日の日没前に大人も子どももみなでわくわくして過ごすのだ。 イスラム教徒であるアラブ人にとって、おいしい食事を囲んで家族が集う楽しい時間を心待ちに1日を過ごすことが断食への原動力になっているのかもしれない。 ラマダンの時期になると、街中のにおいまでが変わる。夕暮れ時は街中が大きなキッチンのようになり、どこからもおいしそうな料理の香りがしている。年に一度の大切な時期である。家族のみなが張り切って準備している。 「今日は、母親はどんなおいしい料理を作るのだろう」と、期待に胸を膨らませながら、「それにしてもお腹がすいたなあ」と思う。ラマダンでは、毎日、特別メニューで違うのが当たり前。父親も知恵を絞って、家族を喜ばせる一品を捜し求める。「今日はスイカにしよう。すいません、これを2つください」と、父親は張り切ってスイカ2つを買ってくる。 若者はラマダン・イベントで連帯感を高める 若者もラマダンを思う存分楽しんでいる。ラマダンがやってくると、あちこちでラマダンに合わせたさまざまなイベントが一斉に始まる。町はライトアップされみんなが浮足立っている。 ラマダンにちなんだセールやサッカー大会、ディナー、遊園地のイベントもあるし、テレビ、映画でもさまざまな特集が組まれる。そしてとにかく、食べる、食べる、食べまくる。そして食べたあとは、遊ぶ、遊ぶ、遊びまくる。町全体がイルミネーションや彩り鮮やかなライトで飾られるのも、ラマダンのときだけの楽しみのひとつ。 もちろん食べることや遊ぶこともよいけれど、礼拝も大切で、ラマダンはイスラム教徒の連帯感の強さを実感させられる時期でもある。普段の5回の礼拝とは別に、善徳の高い礼拝が合同で毎日夜の時間に行われる。 そして「神様への願いごと」といえば、イスラム暦の9月、ラマダンがもっとも「願いごとができる」季節である。 明日への希望をつなぐ「願いごと」の季節 ラマダンの最後の10日間のうち、ある特定の日にアッラーに願いを込めてお祈りすれば、「すべての願いごとがかなえられる」「これまでのすべての罪を許してくれる」などという聖なる一夜がある。その一夜を「ライラ・アルカドル」という。 ただ、そこには大きなハードルがひとつあって、具体的には、「ライラ・アルカドル」が、ラマダンの何日に当たるかなどは明確にされていない。人々は、神から与えられるこの「恩赦」のチャンスを心待ちにして、アッラーへの礼拝に励みながら、ラマダンのこの「ラスト10days」を過ごすのである。 「今年、大学入試に合格できますように」、「母親の病気が早く治りますように」、「就職や留学ができますように」などなど、人々の願いごとがラマダンの神聖な時間を駆け巡り、明日への希望をつないでいく。これもまた、イスラム教徒が抱くラマダンへの特別な思いの源だといえるだろう。 アラブ人(イスラム教徒)はこうして、ラマダンを全身全霊で楽しむ。断食の1日をやり遂げた自分へのご褒美(ほうび)として、夕方から翌日の明け方まで、思う存分に食べて、遊んで、そしてアッラーが与えてくれた恵みと祝福に感謝することを忘れず礼拝にも勤(いそ)しむ。これがラマダンなのである。 タイトル写真=カイロ郊外でラマダン用の飾りを売る露天商(写真提供=時事) (※1) ^ 朔望月とは太陽に対して月が天球を1周する時間で29.530589日。太陽と月の黄経の差が0度のときを「朔」、黄経の差が180度のときを「望」と呼ぶ。

「テロ」の背後にある欧米とイスラム社会、双方の“偽善”

言論の自由とは何か? 再び「9.11事件」の悪夢が蘇ってきた。しかし、今回は米国でではなく、世界の花の都“パリ”だった。1か月前にフランスで起きた週刊紙「シャルリー・エブド」の襲撃事件の痛ましいニュースを耳にした瞬間、2001年の米同時多発テロ9.11事件が脳裏をよぎった。「我々の味方か、それともテロリストの味方か」―当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領のバカバカしい発言を思い出す。仏大手新聞社「ル・モンド」は、アメリカ国民に対するフランスの連帯感を示そうと、「私たちは皆アメリカ人」というキャンペーンを繰り広げた。 はじめに断っておくが、いかなる理由によるものであれ、フランスの襲撃事件は断じて許されるものではない。政治的な目的を暴力によって達成しようとする最悪で卑劣な行為である。 しかし、本当にあの事件は、世界や西欧のいう「言論の自由」を犯すものだったのか。だとすれば、他文化や他民族が大切にする思想や信条などを傷つける、この「言論の自由」について我々は考えるべきだと思う。 「イスラム=テロ」というレベルの低い構図 侮辱・冒涜・差別・憎悪・・・「表現の自由」などという美しい言葉で飾られるものではないと思う。世界の20%を超える人がイスラム教徒であるとされている。普遍的に尊敬されている思想を軽く扱われたら傷つく人がいるのは想像するに難くないだろう。表現の自由の問題ではなく、背景にはヨーロッパに蔓延している人種差別や白人優位の超越感という古くいびつな考え方があるのではないかと感じている。 今回の仏新聞社襲撃事件をめぐる議論では、西洋とアラブ・イスラム世界との長い対立構造とその歴史が語られることが多い。こうした短絡的な結論に飛びついてしまう人がいる。私の胸の内を明かすと、「イスラム=テロ」というレベルの低い議論にはうんざりといった心境だ。 西洋対東洋、イスラム対キリストまたはユダヤといった都合の良い解釈や短絡的な結論ではなく、足元にある実際の生活の背景、具体的な利害関係に向き合わなければならないのではないか。「イスラム=テロ」という短絡的な考えに陥るのは、底流にあるラジカル(極端で過激的信条)な思想が最大の原因だといえる。 ヨーロッパにおけるラジカルな思想の台頭 今回の事件は極めてヨーロッパのローカルな次元の問題として見るべきだと思う。近年、フランスのイスラム教徒の人口は急速に、しかも圧倒的に増え、現在、その数はヨーロッパ最多の約500万人と推定されている。それに対する不安が反イスラム感情や移民排斥傾向をもつ極右政党国民戦線への支持を増やしている。そこにEU統合の深化がもたらす社会解体の圧力もあり、フランス的価値を掲げる反EUの国民戦線にはますます支持が集まる。実際に国民戦線は欧州議会選挙で、仏国内最多の票を獲得して、3議席から一気に24議席にまで伸ばし、ついに仏国内における第1党になった。 こうして見ると、平和と民主主義を理念に掲げ、統合を進めてきたEU、とりわけフランスの排他的でラジカルな思想の傾向の拡大とその悪影響をうかがい知ることができる。そして、これはフランスに限った話ではない。スウェーデンやデンマークなどのほかのヨーロッパ諸国にも広がっている。人権尊重を国や文明の理念に掲げてきたフランスだけに、『反移民』を掲げる政党が欧州議会選挙で第1党になったことは、いかにヨーロッパにラジカル思想的傾向が拡大しているかを示している。 ある意味で、これは「一級」、「二級」といったように国民を差別化し、分断する民主主義の不全と副作用だと言っていいだろう。フランスをはじめ、ヨーロッパ諸国の多くに蔓延する反イスラム感情や移民系国民への差別化を産み出した問題でもある。 イラク攻撃が生んだ「イスラム国」 テロはどうして起きるのか。テロの最大の動機は「社会に対する不満」だとされている。自分が生まれた環境や社会、帰属する文化や考え方などに対する“憤慨”の結果だと分析されることが多い。そして、今の世界の状況を見ると不満の元は一つだといえよう。 そのためにも地政学的視点からも、この事件を考えていく必要がある。アラブ地域で起きている戦闘や空爆、政治動乱や混沌状況と、今回の事件や他のヨーロッパで起きているテロ、暴力行為は全く関係のない別々のものではない。問題の根は深く連なっている。 しかし、私たちからすると、過激派組織を作らせる動機と大義を与えたのは誰だろう? 決して欧米メディアが伝えているようにアラブやイスラムの過激派思想によるものではない。「イラク攻撃」がなければ、「イスラム国」はなかったのだ。アルカーイダもそうだ。ソ連のアフガニスタン侵攻や攻撃がなかったら、きっとアルカーイダも出現しなかったに違いない。というのも出現する意味そのものがなかったからだと思う。 風刺画に利益があるのか 預言者ムハンマドはイスラム教徒にとってどういう存在か、なぜそこまでイスラム教徒が風刺画に対して怒りを覚えるのか疑問に思う人がいる。預言者ムハンマドはイスラム教徒にとって大切な存在なのである。 大切にしたい存在を新聞に掲載されて侮辱されたら、どう思うだろうか。執拗に繰り返されたらどう思うのだろうか。不快に思いながらも無視する人がいれば、過激に怒る人もいるだろう。怒る人がいることを知りながらなぜ刺激するような内容の風刺画を掲載するのだろう。納得できるような理由を教えてもらいたい。あの風刺画を掲載することで誰に、どのような利益があるのか。 今年は、日本に来てから20年目になる。この20年を振り返ってみると、世界や日本においてイスラムに対する理解はまったく進んでいないとは言えないが、クローズアップされるニュースが偏っているために理解がゆがんでいる面も否定できない。そして、イスラム世界にもまたヨーロッパなどの欧米社会にもラジカルで排他的な思想が勢いを増しているように見受けられる。そのラジカルな思想の根源は、ダブルスタンダードによる偽善行為が溢れている私たちの日常生活にある。 パリの抵抗デモにみる偽善 その一例が、シャルリー・エブド襲撃事件に対して世界の指導者達の団結と連帯を示すために行われたパリでの抗議デモである。正確な表現を使えば、これは限りなく「ショー」に近いものだった。世界の指導者40人が一堂に集まること自体は歴史的舞台となったと思う。 だが、「言論の自由」のために集まった大統領や指導者たちのほとんどは、言論の自由を犯した経験のある人たちばかりだったのではないか。皮肉なことに、ジャーナリストの不当逮捕や言論統制の法律など普段から何のためらいもなく「言論の自由」を踏みにじっている指導者たちはシャルリー・エブドのために泣いた! シャルリー・エブド事件とその被害者のために泣いた世界。その同じ世界が、空爆が三ヶ月も続いたパレスチナのガザや、独裁政権が4年も弾圧や殺害を続けるシリアとその国民、イラク、ミャンマー(イスラム教徒弾圧)、イエメン、などなどの混沌した状態を見て見ぬ振りをして、そして、誰も泣かなかった。今の国際社会は偽善で溢れている。ヨーロッパの言う人権、平等、自由なども偽善にすぎない。 イスラムの理念を見失うな 一方、イスラム社会も同じように偽善で溢れている。アラブ諸国政府や国民の多くは言うこととやることがまったく矛盾するものばかりだ。イスラムは平和な宗教のはずである。しかし、イスラム教徒である私たちの生活はまったく平和とは無縁な状況にある。 相手の考えを尊重し、共存共栄することや、異教徒を受け入れること、また相手に嫌なことをされても寛大な心をもってそれを赦すことこそ、イスラムの最も大切にしている理念であるにもかかわらず、我々の社会は攻撃や暴力に訴える人で溢れている。 何を信じて良いのか、もはやすべてが偽善にしか見えないのが今の実情である。結局、欧米も、またイスラムの現代社会も、共存の壁にぶつかるたびに、都合の良い解釈を重ね、ダブルスタンダードによる差別や排他行為を繰り返しているだけだ。 カバー写真=(右)仏紙襲撃テロ事件に対する大規模追悼デモ=パリのレピュブリック広場にて、2015年1月11日。(AP/Aflo) (左)仏紙ムハンマド風刺画掲載に抗議のデモ=パキスタンのラホールにて、2015年1月25日。(REUTERS/Aflo)