気になる、アラブと日本のあれこれ! アラブ人と死
アラブ人またイスラム教徒の「死」に対する考えを知るには、アラブ・イスラム文化の源泉とされる詩集、慣用的表現、格言、ことわざ、などの言語表現が最も有効な手段だとされている。 イスラム教では、死がどのように捉えられるかなどについては、様々な文献を通じてもはや知れ渡っているのだろう。もちろんそれらの文献の中心的検証資料となるのは、イスラム教の聖典聖書であるコーランと予言者ムハンマドの現行録です。 実際、調べてみると、死を意味するアラビア語の単語『 الموت/Almaut』はコーランの中で約170回取上げられています。かなりの使用頻度です。 イスラム教では、死は、単なる体の機能の停止に留まる考えではありません。なぜなら、人間は、体の他に魂があるからです。その上で、体の機能は止まっても、魂は別の次元で生きていると考えています。 そのため、死は「終わり」を意味すると同時に「始まり」の意味でもあります。つまり、死は、体の終わり、現世の終わりを意味してはいるものの、終世への旅立ちへの始まりであります。また、そこで、人間は審判を受け、生前でのそれまでの自分の行いの内容で処遇が決まってくるのです。つまり、地獄行きか天国行きかのいずれかになる。 死とは何か? イスラム教の信仰のもとでは死に対する考え方がほとんど結論済みです。とはいえ、アラブやイスラム文化の長い歴史において、死の本質を探究する思想家や宗教学者、文芸家などの人たちは少なくなかった。また、その描写は多様であった。その中で、最も代表的なメタファーによる描写は、{眠り}に例えることだった。 次の有名な哲学者で詩人 のアルマッリ氏 による詩の一節はその例のひとつです。 ضجعة الموت رقدة يستريج الجسم فيها ، والعيش مثل السهاد 訳:死は体を休めるぐらいのようなもので、また生きるということは眠れなくなった体のようなものです。 もちろん、これは描写の一例に過ぎませんが、眠りと死の両方の状態に共通する体の横たわりや活動の停止、意識の一時的なそうしつなどの特徴にかけた表現である。 どうして去って行くのか? 人は必ず死ぬ。たとえ、どんなに老いに抗い、健康を維持しようと努めても、死は万人が受け入れざるを得ない宿命だ。 どうせ最後に去って行くのなら、どうして私たちはこの世に生まれて来るのだろうか? 永遠に疑問が尽きない問題ではあるが、アラブ人の捉え方は次の詩集からもわかるように至ってシンプルである。自然摂理の一環として、他人が永遠に生きていたら、人生は自分には回ってこない。ずっと生きていたら、誰も生まれてこない。 格言:もし他の人がずっと生きていたら貴方は今ごろいないんだろう。 لو دامت لغيرك ماآلت اليك 死ぬ瞬間について:— では、死ぬ瞬間とは一体、どんなものなのか。暗闇に入るものなのか、痛いのか、何も感じないのか。 イスラム教徒のアラブ人は、「死の瞬間」を痛みの伴う恐ろしいものとして描写し捉えている。そのため、理想的な死に方として皆から憧れられるのは、寝ている間などの無意識の状態の時に息を引取ることです。これについて、アラブの詩人ナジャフイ氏は、次の詩を詠んでいる。 احاول أن أموت بغير…