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アラブの世界、そこが知りたい! 人間関係の円滑剤、ユーモアのセンス!

アラブ人は、常に力を抜こうとする「弛緩志向」というマインドが得意。そして緊張を解消ためにも笑いやユーモアを生活によく取り入れるのだ。仕事など緊張のある一大事の時でもジョークを飛ばしたりユーモアのある表現を使うなどして気楽にしていられるのが「できる人」の証である。一方、日本人は、大切な場面になればますます力が抜けず表情も硬くなる「緊張志向」が目立つ。 アラブのトップリーダーや「できる人」は、どんなにせっぱ詰まった時でも、メンタルの強さや自信などを見せる証として冗談一つや二つ言えるゆとりをアピールする。 一方、日本人は、いつも力を入れて頑張っていなければならないのが美徳の一つだ。「生懸命やる」ことや「張り切る」ことはいいことで、力を抜くことは「不真面目」や「怠け」でよくないことである。そのため、日本では、冗談は真面目な姿勢に反するとの体育系的考えが支配 的である。そのためか、日本人にはあまりユーモアがないと思われているが 、日本には漫才や落語などの豊かなお笑い文化がある

アラブの基礎知識! アラブ人と日本人の行動パターン,時間,挨拶,言葉の感覚をめぐって

文化摩擦と呼ばれる現象の多くは,互いの文化特有の物の考え方や見方をめぐる独断や理解不足などが原因とされる。アラブを訪れた日本人にアラブ人のイメージを尋ねると,優しい,親切,情が深いなどといったプラスのイメージの他,大雑把,マナーが悪い,冷たいというマイナスのイメージも聞かれる。なぜこのような両極端なイメージがあるのだろうか。自分自身としては,日本滞在24年が経つ今も,日本人の行動パターンをめぐっては多くの疑問符を付けたくなることがあり,その独特で,ときに曖昧な特徴や個性に困惑させられることもある。 アラブ人と接する際に日本人が常に困惑させられることの一つが,時間に関する感覚の違いである。アラブ人はなぜ時間を守らないのか。また時間をどのように捉えているのか。

日本の社会、そこが知りたい! 日本流リーダーシップ!

「リーダーシップ」と言えば、誰もが憧れるものである。だが、実際に、真のリーダーシップが発揮出来るかどうかは別の話となる。「自ら率先してビジョンや目標をみんなに示しながら問題解決や目標達成を実現する能力である」・・というのはリーダーシップの一般的な定義だという。しかし、これも人や状況、時代によってさまざまだろう。働き方や生き方が多様化している今、リーダーやリーダーシップの意味を定義すること自体は難しいのかもしれない。というのも、時代によって必要とされるリーダー像は異なってくるからだ。 今回の新型コロナウィルスの感染拡大騒動でリーダーシップが問われる場面は少なくなかった。企業や政府機関などのトップがそれぞれの立場で懸命になってリーダーシップを発揮しようとしている・・はずではあるが、最終的にはいつものように後始末がまずく、そして何か違和感が残る。 自然災害か人災かにかかわらずの緊急時の対応策を巡って、なぜか、日本のリーダーは非難を浴びることが多い。そして、決まって「強いリーダーシップを発揮できるリーダーはいない国だ」と言われる始末だ。しかし、これは本当なのだろうか。まったく見当外れの 話ではないが、何だか的を得ているとも言えず、当たらずとも遠からずといっておくのが妥当なように思える。 世界各国のリーダーたちは、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、国民に向けたメッセージを発し、協力や適切な行動、連帯などを呼びかけている。危機的状況に関する事実や見通しを公言し全て国民にぶつけようとするイギリスやドイツの首相が示すリーダーシップのようなタイプもあれば、国民の連帯強化や、危機に立ち向かうためのモチベーションを高めることに重点を置いた危機管理の舵取りというニュージーランドや台湾のようなトップリーダーによるリーダーシップのパターンもある。 一方、日本はどうかというと、速さや効率より、協調性のある正確かつリスクの低い行動を基本として、いつものように、「初期行動が遅く、柔軟性に欠ける、縦割り的」のパターンによる行動と決断となる。しかし、この思考パターンのおかげで、被害が最小限に留まることがあることも否定できない。   悪く聞こえるのかもしれないが、日本の組織は個人によるリーダーシップをあまり好まず、また、あまり育てようとしない。しかし、そのかわりに、組織によるリーダーシップをとることに抵抗がない。これは日本の組織文化とそのロジックに関係していることだと思われている。というのも、日本には組織の責任と個人の責任が混同される風潮があるからだ。結果として、「者(個人)によるリードーシップ」より、「社(組織)によるリードーシップ」という社会通念が推奨され日本社会に根付く結果となったのである。 一方、日本から見たこの魅力的なリーダーとは「何か」と歴史の中で、それを読み解くのは面白い。そういう意味で、司馬遼太郎の作品に登場する『竜馬がゆく』の坂本竜馬、『坂の上の雲』の秋山兄弟などのリーダーたちのように、国難の際に救国の指導者として日本を導いた政財界のリーダーや、今日の様々な分野のリーダーたちの中にも、優れたリーダーが数多くいたことは事実である。そして今も讃えられる日本のこの優れた リーダーたちに共通するのは、「責任」と「信頼」に加えて、「調和力」である。日本文化には、相手や周囲の人たちに合わせようとする「調和志向」の文化的特色が根強い。温かい人間関係を保ちながら集団としてうまく機能しようとする日本人のマインドでは、何よりも調和を重視し、可能な限り対立を避けて相手に適応しようとする。そのためか、曖昧な言い回し的な表現が得意で、建前は話すが、本音は隠すのが処世術の基本である。 こうした国民性を背景に、日本史において「人たらし」としての性格を持つリーダーは特別な存在だった。リーダーとして、武将や部下からも信頼の厚かった豊臣秀吉の魅力について、司馬遼太郎は、こう記している。「人たらしの天才」と。人とのボーダーレスの力を秘めたこの「人たらし」という資質こそ、日本のリーダーの強みのはずであるが、今のご時世では類い稀なる資質であろう。 一方、強いリーダーがいなくてもうまく回れるのが日本の組織の特徴だと言える。それは、現場を取りまとめる中間的なリーダーのリーダーシップとその知恵のお陰である。日本の組織には、トップリーダーと中間層的リーダーの間に一種の連動性(運動性)が働き、組織全体の方向性と個々の役割が決まってくる・・というようなメカニズムがあろう。世が火急の今回のような危機の時もその特殊な法則の働きが見られる場面も多かった。例えば、感染防止への対応策として厚労省トップや役人が打ち出した「湖北省からの帰国者や濃厚接触者」を限定とする検査基準に対して、自治体など現場の中間的リーダーたちはその方向性を汲み取り、現場の声を吸い上げながら調整していた。 結果的には、当初(トップリーダーによる)の方向性に加えた現場の声を併せた状況をもとに最終的方向性と判断をトップリーダーは決めるという流れになった。これこそ日本式の「意思決定」と「リーダーシップ」のプロセスだと言える。安倍総理が要請した学校の全国一斉休校の時もそうである。 そもそも、「トップリーダーからの要請」という発想自体が、トップダウン式の意思決定による命令や指示型を基本とする欧米などの多くの国とは趣を異にする指導法である。総理の要請を受けた、各地域や自治体の中間的リーダーたちはお上である政府や総理のその方向性をそれぞれの方法で受け止めて調整しながら実行する。結果的には、休校としながらも、休校しない(学習を続けられる)ための現場の先生や自治体による様々な努力や工夫に魅せられることが多い。つまり、アプローチが違っても考えと目的が一致しているということになる。それこそ、日本のリーダーシップのメカニズムの極意だと言えよう。 リーダーシップを発揮するためにリーダーに求められる条件は何か。リーダーシップとリーダー像の捉え方の違いにはその国の歴史や文化等によるところもがある。 司馬良太良は一人のリーダーに全てを求めることを好んでいなかった。火急の場合は直接国民に訴えながら大筋を掴んでぶれないタイプもいれば、モチベーションを高める教育者タイプや、ビジョンを伝える力官僚タイプのリーダーもいるだろう。いずれにせよ、その根本にリーダーと組織のメンバーの間で考えと目的の一致がなくてはならないものである。そして、それ以上に大切なのは従う者に寄り添う力と共感性である。          

気になる、アラブと日本のあれこれ! アラブ人と死

アラブ人またイスラム教徒の「死」に対する考えを知るには、アラブ・イスラム文化の源泉とされる詩集、慣用的表現、格言、ことわざ、などの言語表現が最も有効な手段だとされている。 イスラム教では、死がどのように捉えられるかなどについては、様々な文献を通じてもはや知れ渡っているのだろう。もちろんそれらの文献の中心的検証資料となるのは、イスラム教の聖典聖書であるコーランと予言者ムハンマドの現行録です。 実際、調べてみると、死を意味するアラビア語の単語『 الموت/Almaut』はコーランの中で約170回取上げられています。かなりの使用頻度です。 イスラム教では、死は、単なる体の機能の停止に留まる考えではありません。なぜなら、人間は、体の他に魂があるからです。その上で、体の機能は止まっても、魂は別の次元で生きていると考えています。 そのため、死は「終わり」を意味すると同時に「始まり」の意味でもあります。つまり、死は、体の終わり、現世の終わりを意味してはいるものの、終世への旅立ちへの始まりであります。また、そこで、人間は審判を受け、生前でのそれまでの自分の行いの内容で処遇が決まってくるのです。つまり、地獄行きか天国行きかのいずれかになる。 死とは何か? イスラム教の信仰のもとでは死に対する考え方がほとんど結論済みです。とはいえ、アラブやイスラム文化の長い歴史において、死の本質を探究する思想家や宗教学者、文芸家などの人たちは少なくなかった。また、その描写は多様であった。その中で、最も代表的なメタファーによる描写は、{眠り}に例えることだった。 次の有名な哲学者で詩人 のアルマッリ氏 による詩の一節はその例のひとつです。 ضجعة الموت رقدة يستريج الجسم فيها ، والعيش مثل السهاد 訳:死は体を休めるぐらいのようなもので、また生きるということは眠れなくなった体のようなものです。 もちろん、これは描写の一例に過ぎませんが、眠りと死の両方の状態に共通する体の横たわりや活動の停止、意識の一時的なそうしつなどの特徴にかけた表現である。 どうして去って行くのか? 人は必ず死ぬ。たとえ、どんなに老いに抗い、健康を維持しようと努めても、死は万人が受け入れざるを得ない宿命だ。 どうせ最後に去って行くのなら、どうして私たちはこの世に生まれて来るのだろうか? 永遠に疑問が尽きない問題ではあるが、アラブ人の捉え方は次の詩集からもわかるように至ってシンプルである。自然摂理の一環として、他人が永遠に生きていたら、人生は自分には回ってこない。ずっと生きていたら、誰も生まれてこない。 格言:もし他の人がずっと生きていたら貴方は今ごろいないんだろう。 لو دامت لغيرك ماآلت اليك 死ぬ瞬間について:— では、死ぬ瞬間とは一体、どんなものなのか。暗闇に入るものなのか、痛いのか、何も感じないのか。 イスラム教徒のアラブ人は、「死の瞬間」を痛みの伴う恐ろしいものとして描写し捉えている。そのため、理想的な死に方として皆から憧れられるのは、寝ている間などの無意識の状態の時に息を引取ることです。これについて、アラブの詩人ナジャフイ氏は、次の詩を詠んでいる。 احاول أن أموت بغير…

死に絶える中東和平と新和平案というだまし絵

<トランプが「世紀の取引」と呼ぶ新中東和平案が、パレスチナやアラブの人々を絶望させた理由> 70年以上もイスラエルの軍事占領下で苦しめられているパレスチナ。イスラエル軍による不法な弾圧が続き、人々の生活は厳しさを増している。1月28日には、米ホワイトハウスでドナルド・トランプ大統領が仲良しのイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相と共同記者会見に臨み、イスラエルとパレスチナの紛争を終わらせる新たな和平案、いわゆる「世紀の取引」を得意げに発表した。だが世界を翻弄し続けるトランプらしく、これもまったくの茶番だった。少し時間がたってしまったが、この和平構想について考えてみたい。 新和平案はある意味、「斬新過ぎて」誰も付いていけない内容だった。条件付きでパレスチナ国家樹立への道筋を具体的に示しているが、一方で、エルサレムを分断することなくイスラエルの首都とし、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のユダヤ人入植者の退去も求めないことなどを条件としている。さらに将来建設されるパレスチナ国家に軍を持たせず安全保障をイスラエルに委ねるとし、パレスチナを主権のない国家とする構想だ。極め付きは、ヨルダンと国境を接する要衝の「ヨルダン渓谷」の主権をイスラエルに認めるという、事実上の併合を許す内容だ。 将来のパレスチナ国家の地図は滑稽という言葉以外、ふさわしい表現が見つからない。四方八方に散らばった建物を、トンネルや移動手段を使って強引にジグザグな線でつなげ合わせたようなもの。そして、国際社会や国連がこれまで決めた和平の原則を全く無視して、お友達であるイスラエルにパレスチナを丸ごと差し出すものだ。 つまり、パレスチナの領土を割譲する権利を持たないトランプ大統領が、そもそも権利のない占領者であるイスラエルに、パレスチナの権利を譲り渡そうとするような話だ。これによって、アメリカの和平仲介は終わりを告げたと言えよう。 そもそもこの問題は日本で思われているような宗教戦争ではなく、土地をめぐる争いだ。1947年に国際社会はパレスチナ人が住んでいた土地を、パレスチナ(アラブ国家)とイスラエル(ユダヤ国家)に分割する決議を採択したが、イスラエルはその決議を受け入れず今日まで無視し続けている。それによって第1次中東戦争が起き、圧勝したイスラエルがパレスチナ人を追放し、90万人以上のパレスチナ難民が生まれる結果となった。現在、国際社会のいう「パレスチナ」とは、1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領した領土のこと。これも国連決議によって占領地として認められている。パレスチナ人を含むアラブ人は、この土地は不法に占領されたもので、本来はパレスチナ人のものだと訴えている。 <全ての責任はイギリスに> イギリス政府が「パレスチナにユダヤ人国家を建設すること」を認めたバルフォア宣言から約100年以上が経過している今も、大半の日本人はその宣言の真相を理解していない。また、中東問題の真相を理解していない。さらに言えば、イスラエル建国の真相を理解していない。中には宗教による対立問題だと見ている人も少なくない。 歴史をたどっていくと、この問題を作り出した全責任はイギリスにある。いわゆる1917年11月2日にイギリスの外相とユダヤ人の間に交わされた密約「バルフォア宣言」の結果だ。当時のイギリスは第1次大戦におけるアラブ人からの支援と引き替えに、パレスチナをアラブ人にあたえる誓約をしていた。しかし最終的にその約束を破り、バルフォア宣言をしたことが、現在に至るパレスチナ問題の原因となった。 今回、私と同じようにテレビ越しにトランプの新和平案を知らされたアラブやイスラム世界の多くの人は、これは「世紀の取引」ではなく「世紀の厚かましさ」だと皮肉った。 しかし、茶番を演じる他人(トランプやネタニヤフ)の滑稽な姿の中に自分自身の姿を発見したとき、私たち(アラブ人やパレスチナ人)はどうすればいいのだろうか。 これは複雑な気持である。トランプが世界を無視し続ける勢いには歯止めがきかないが、これに頭を下げ続ける大半の国々の滑稽な姿も目立つ。アラブ諸国の政府も同じありさまで、これに大半のアラブ人は失望のどん底に突き落とされる。新和平案の発表を受けて、アラブ諸国からトランプへ抗議の電話が鳴り止まないだろうと私たちアラブ人は期待していたが、残念ながらそうはならなかった。そればかりか、新和平案が発表されたホワイトハウスの記者会見には、UAE(アラブ首長国連邦)及びバーレーン、オマーンの駐米大使も出席していた。トランプが、和平案の作成に協力してきたアラブ諸国に感謝の言葉をかける場面もあった。これをテレビ越しに見ていたアラブ人の多くは、おそらくそれまで感じたこともない憤りと絶望を覚えただろう。 <全てを台無しにした「オスロ合意」> 全ての問題の発端はオスロ合意だ。トランプの和平案に対して、多くのアラブ人の専門家や有識者はそのように見ている。オスロ合意は93年、ノルウェーの仲介による秘密交渉で実現したもので、正式には「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」。イスラエルのイツハク・ラビン首相(当時)とパレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長が、ビル・クリントン米大統領の立ち合いの下、ワシントンのホワイトハウスで調印した。これはパレスチナ人との共存がうたい文句だったが、今になって自分を含む大半のアラブ人は、オスロ合意こそがパレスチナの独立権をフイにしたと考えるようになった。国家樹立のためにパレスチナ人が長年闘争し、そのために払ってきた犠牲を台無しにしたのがオスロ合意だと。そして、全てが欧米による策略だったのではないかとまで思うようになったのだ。 オスロ合意により、パレスチナ人は陸の孤島のように分断された自治区に事実上閉じ込められ、不自由で貧しい生活を強いられることになった。パレスチナ人の国家もできず、首都としての東エルサレムの奪還も、パレスチナ人の帰還権も何一つ手に入れることができなかった。むしろ、1947年の国連決議で決められた2国家構想や国際社会による約束の領土も奪われた。 つまりアメリカやイスラエルはオスロ合意という見せかけの合意を作り、民族の自決権としてのパレスチナ国家の樹立問題を、単なるパレスチナとイスラエルの政治的争いという問題にすり替えてしまった。イスラエルやアメリカは、国際法や国連憲章によって保障されているはずの民族自決権や民族解放闘争、とりわけイスラエルの非合法占領に対するパレスチナ人の闘争の権利を非合法化するために、和平交渉やオスロ合意を働きかけ、それを口実に占領を合法化しようとしてきた。 私が日本に来てから25年が経つ。その間、イラク経済封鎖、9.11アメリカ同時多発テロ、イラク戦争、イラク内戦、イスラエルのガザ攻撃、イスラエルのレバノン攻撃、アラブの春、リビア内戦、シリア内戦、イエメン内戦と、中東地域をめぐる数々の出来事が起きた。それらを見つめる中で、なぜテロが起きるのか、テロを起こした人間はどんなきっかけでそうなったのかといった多くの疑問が頭をよぎった。最近思うに、人間は努力や苦悩を続けても報われないと「何をやってもダメだ」と失望し、また、追い詰められた状況が続くと過激な思想に走る確率が高くなる。これは平和の力を信じて努力や苦悩をしてきた人の場合も同じだ。そのことは「武力なしに平和の実現はない」と力に訴える声に説得力を持たせることにつながるだろう。これを心理学者であるビクトール・フランクルの「苦悩と絶望に関する公式」に当てはめて、「解(かい)」を得ようとすると次のようになる。 <絶望=努力や苦悩-意味> フランクルは、ナチスドイツによるアウシュビッツ強制収容所に収容されるという絶望的な状況の中で、わずかな希望を見出して、奇跡的に生き延びたユダヤ人の1人。彼によると絶望とは、苦悩から意味を差し引いたことをいう。つまり、絶望とは意味なき苦悩だ。 絶望的な状況に追い込まれた人たちに共通するのは、わずかでも決して希望を失わないということだ。イスラエルの軍事占領下で苦しめられているパレスチナ人の場合でいうと、これまで70年間、「パレスチナ」の国家建設を手に入れるために苦悩に苦悩を重ねて、未来への希望を紡ごうとしてきた。つまりパレスチナ人が捉える和平への希望と、占領による苦悩は次の公式で説明できよう。 希望=努力や苦悩+意味 つまりパレスチナにとって和平への希望とは、占領に苦しめられている苦悩に、いつか自由になれるという意味を加えたもの。それによって苦悩は、意味のある苦悩となる。しかし、そんな明日への希望を抱ける気持ちすら、トランプの和平案によって打ち砕かれた。 良い戦争はないと信じたいところだが、パレスチナの今の状況を見ると、圧倒的な力で抑えつけようとしているイスラエルに対して、力づくで平和を勝ち取るしかないとの考えが出てきても不思議ではない。しかし、それは危険な考えだ。そして、このように追い詰められた人間こそ、暴力やテロの一番の原因となる。パレスチナ人には大義があり、自分たちは追い詰められていると信じている。イスラエルにも大義があり、追い詰められていると信じている。トランプの和平案はイスラエルの大義を正当化し、パレスチナの民族自決権とその大義を否定するものだ。どちらもその大義によって相手への憎悪が増して、無差別に傷付ける……それに拍車をかけるのがトランプの新和平案だ。どうかこれ以上、パレスチナ人を絶望の淵へ追いやるのをやめてほしい。