日本とアラブのメタファー思考、「人生は学校である」!
私たちは、日常言語において、比喩(メタファーなど)を介して、ある事柄に関する知識を元に、別の事柄のある一面または状態を連想しながら意味を捉える。それは、多くの慣用句や比喩(メタファーなど)表現が生じる元になった二つの意味領域からの情報のメタファー的写像(比喩とそのイメージ)を、人々が暗黙的に理解しているからであると思われる。
ここで意味と比喩の関係を理解するために認知言語学の用語の一つである「概念メタファー」の意味を説明しよう。
概念メタファーとは、抽象的で分かりにくい概念領域A(target domain)を具体的で分かり易い概念領域B(source domain)で理解する、我々の認識過程を意味し、Lakoff流では「A Is B」の形式を用いて表す。例えば、IDEA IS Food(Lakoff and Johnson 1980:pp.46-47)を見よう。これは、認識上、我々が「考え」という概念領域を、「食べ物」という概念領域で理解していることを示す。そして、このような認識は、個々の比喩(メタファー)表現(There are too many facts here for me to digest them all./ I just can’t swallow that claim)などに反映する。このように、比喩(メタファーなど)的慣用表現の背後にある我々の認識は、それぞれの概念メタファーで表される。
慣用句や比喩表現などの表現の個々の要素はその単語の基盤にある「比喩的概念(比喩とのつながりを示す考)」や「心的イメージ(心に浮かぶイメージ)」を示しているとされており、その結果、その表現の字義的意味が用いられるのとは異なる意味的特徴が活性化される。
例えば、アラビア語の「huwa (彼)lam(~ない) yanja.h[1](成功する) fî(に/で) al-.hayât(人生):彼は人生で成功しなかった」、「huwa(彼) ta’aláma(学んだ) al=kathir(多く) fî (に/で)al-.hayât(人生):彼は人生で多くのことを学んだ」などといった人間と人生の学習関係などに関するこれらの慣用表現では、lam(~ない) yanja.hu(成功する) fî(に/で) al-.hayât(人生)を人生で失敗したことへとイメージを写している。
アラビア語の話し手は、lam(~ない) yanja.hu(成功する) fî(に/で) al-.hayât(人生)を「人生で失敗した」を意味することを理解するが、その理由は、それらの表現の基盤に「al-.hayât madrasah:人生は学校である」のような概念メタファー(特定の言語の表現においての比喩と固定観念を結ぶ意味)があって、「人生」の概念的意味に構造を与えている。この種の概念メタファーは、「構造の比喩」と呼ばれている。学校はふつう何らかの形式上の構成を持っている。そこで、人生の中で「ためになるような体験をすること」を「良いレッスン」を受けたと表現したりするのである。
つまり、「人生」と「学校」という二つの概念領域の間に、「人生での経験=学校での学習」、「人生での成功または失敗=学校のテストでの合格または落第」、などの側面で対応関係が見られることから、形式上、または機能上、何らかの構造的類似性があると見なされる。このような二つの概念領域の対応関係について、言語と認知的意味で知られているレイコフとターナー(1994)は、写像と呼んでいる。そして、「人生は学校である」というような概念メタファーを私たちが理解できるのは、二つの概念領域の間に成り立つ比喩(メタファー)による写像関係によってではなく、むしろその基盤となる日常の習慣的経験で既成されている社会通念・身体的経験などによるものである(つづく)。
アルモーメン アブドーラ
東海大学教授( 日本語日本文学博士)
注釈:[1] yanja.h(成功する):「yanja.h」という動詞には、「学校やテストなどで合格する」というニュアンスがある。普通、yanja.hを用いる際は、難しいテストをパスしたなどというニュアンスが強く表れることが多い。