الشهر: أبريل 2020

リスクを好まない国、日本!: 脳のブレーキが生む「おもてなし」精神

無難あふれる日本、成功に懸ける西欧 日本人はどのように現実を捉え、その結果、どのような文化を作っているのか。 「人々の見方とその発想は、彼らの使う言語によって制約を受ける」――著名な言語学者エドワード・サピアの仮説に立てば、四半世紀近く日本で暮らしている私の場合は、日本人と同じ言葉でものを考えるようになった分だけ、生まれ育ったアラブ社会が不思議なものに見えることがある。逆に、アラブ人としては、母語であるアラビア語の感覚が根強く残っていることで、日本人とその行動に違和感を覚えることも少なくない。日本とアラブの二つの文化の間に宙ぶらりんになっているように感じることがある。 日本人は、「リスク」と聞くと、「何か悪い結果を招く危なかしいもの」のように感じるらしい。そのため、ここで生きる人々はなるべくリスクを取らないよう細心の注意を払うことが当たり前になっている。仕事や学校に行く時も、人と話す時も、あらゆる場面で可能な限りリスクのないように行動を律する。結果として、日本社会には「無難」があふれている。 一方、日本の近代化のモデルとなった西洋社会では「リスク」が意味する概念には「計算された行動で、うまくいった場合の成果が大きい」という意味合いが強い。つまり、計算の中に「成功」に懸ける発想が中心となる。これは、悪い結果を招くニュアンスが根強い日本語とは正反対の発想だ。 日本の大学で教鞭を執って15年ほどになるが、学生の行動にもリスク回避気質が表れている。授業にはディスカッションや自分の考えを述べる場面を作り、双方向的な形で展開したいと思っているのだが、学生に意見を求めても、まともに答えが返ってくることはまずない。でも、しばらくすると、教室のあちこちで、隣同士でおしゃべりが始まり、自分の意見を言ったり、論評しあったりしている。意見が無いから私の問いに答えないわけではない。みんなが手を上げないのであれば、自分もそれに従って目立たない方が良いと判断する。日本人お得意の「空気を読む」は、「出る杭は打たれる」リスクを回避するために必要な知恵なのだ。 「楽観」と「悲観」は遺伝で決まる? リスクを嫌う気質故に、日本人は世界で最も投資意欲が低いと言われている。日銀の資金循環統計によると、2018年末の個人(家計部門)の金融資産は1830兆円にも上るが、欧米主要国に比べて、現預金のウェートが高く、株式・投信などのリスク資産の比率が低い。リスクを伴う投資による収入がネガティブに捉えられるところによる影響が大きい。だから、政府がいくら旗を振っても、「貯蓄から投資」がなかなか進まないのだ。こうした、日本人のネガティブ思考の背景にはどうやら遺伝的な要素が関係しているようだ。 米国の名門大学の一つであるウェルズリー大学の心理学者ジュリー・K・ノレムの研究によれば、人間の心的傾向(メンタリティー)は「防衛的ペシミスト」と「戦略的オプティミスト」の2種類に分類することができるという。防衛的ペシミストは、どんなに成功を積み重ねても「次は失敗するかも」とネガティブに考える。一方、戦略的オプティミストは確たる根拠が無いのに、「次は絶対できる!」と前向きに考える。 防衛的ペシミストになるか戦略的オプティミストになるかの鍵を握っているのがセロトニンという物質であるという。セロトニンは脳内にある神経伝達物質で、これが十分にあると安心感や、やる気につながり、少ないと不安感やイライラの原因となる。セロトニンを脳内で運搬する役割を担っている「セロトニントランスポーター」と呼ばれるたんぱく質の遺伝子型によって、セロトニンが十分に行き渡るかどうかが決まるというのだ。 セロトニントランスポーター遺伝子には少ししか運べない「S型」とたくさん運べる「L型」がある。遺伝子は両親から1つずつもらうので、SS型、SL型、LL型の3つの組み合わせになるのだが、日本人はSS型が7割近くを占め、LL型は数パーセントしかいないという。つまり、脳内でセロトニンが十分に活用されず、ちょっとしたことで不安になったり、悪い結果を予想したりしがちな「防衛的ペシミスト」集団が日本という国だということになる。 「和」の精神は脳ブレーキの働き 誤解のないのように断っておくが、「戦略的オプティミスト」の方が優れているとか、「防衛的ペシミスト」は成功できないということではない。ノレム氏の著書のタイトル『The Positive Power of Negative Thinking(邦題「ネガティブだからうまくいく」)』が示すように、ネガティブな思考がポジティブな力を生み出すことがある。「失敗するかも」「この先、何かしらの障害が待ち受けている」と考える人は、慎重に計画を立て、軽率な行動で混乱を招いたり、周囲の人に迷惑をかけたりしないようにする。相手にも最大限の配慮をするので、人との信頼関係も築きやすい。こう考えると、「防衛的ペシミスト」という気質が、日本人の勤勉さやまめな仕事ぶりの源泉だと言えるのかもしれない。 人間の脳は、願望や欲求などを満たすための「アクセル的な働き」と、それらを抑制する「ブレーキ的な働き」の二つの働きによってコントロールされているそうだ。 「アクセル的な働き」は人間が生まれたときから本能を司る脳の部分であるのに対して、「ブレーキ的な働き」は、成長の過程で人間が身につけていくものである。「出る杭」になることを避けようとする日本社会においては、「ブレーキ」が特に重要な意味を持つ。 言語の特色にもその影響が見られる。「〜なのではないか」「〜のかも分かりません」「〜と思われる」などのように断定せず、曖昧で無難な表現を選択することが「良し」とされる。気持ちや表情の抑制も日本らしい文化の一つとされている。人前で強く感情を示すことなく、悲しいときや動揺しているときに自らをコントロールする強い意志を見せるのも、日本人の気質の一つである「気丈」のおかげだ。 日本の「和」の精神の根幹を成すのも脳の「ブレーキ的働き」である。社会のニーズを成り立たせるためには、村人が自らのニーズよりも、村社会全体のニーズを考え、他の人々と行動を共にして稲を植え、収穫をしなければならない。これも日本人が得意とする脳のブレーキ的働きによって可能となる。このように例を挙げたら切りがないほど、脳の「ブレーキ的な働き」が日本人の行動パターンの標準となっている。 ネガティブとポジティブは等価値 これらの「ブレーキ的働き」によって生まれる行動パターンこそが、相手への思いやりや配慮として現れ、日本人の「おもてなし」の精神を生んだとも考えられる。しかし、それは言ってしまえば、日本人は誰よりも周りの人のことを考えて思いやることや、人をもてなすことに長けていると言えるかもしれない。 「グローバルスタンダード」が求められる今の世の中、西欧型の戦略的オプティミストがもてはやされ、物事を前向きに捉え、願望や欲求を率直に表すことこそ成功への道であるかのように思われがちだ。しかし、文化や風土、あるいは遺伝子による制約によって、誰もが戦略的オプティミストになれるわけではない。それを悲観する必要はないのだ。ネガティブとポジティブ、また、脳のブレーキ的働きとアクセル的働きは太陽と影の関係のように等価値であり、切っても切れない関係なのではないだろうか。 そう考えるのは、私が、防衛的ペシミスト社会にどっぷり漬かっているからかもしれない。 バナー写真:PIXTA

「一個のおむすび」と浅草花やしきで平和について考えた

<中東では日本の現状からは想像もできない戦乱が続いている。子どもたちを連れて訪れた遊園地で筆者が教えられた、平和へのヒントとは?> 先日、本屋で面白い本を手に入れた。あまりに面白いから、皆さんにその本を紹介したいと思う。「朝のかたち」(角川文庫)で、詩人の谷川俊太郎さんが書いた詩集だ。 あそこでは そうあの廃坑になった町では おべんとうのある子は おべんとうを食べていたそして おべんとうのない子は 風の強い校庭で 黙ってぶらんこにのっていた その短い記事と写真を 何故こんなにはっきり 記憶しているのだろう どうすることもできぬ くやしさが 泉のように湧きあがる どうやってわかちあうのか 幸せを どうやってわかちあうのか 不幸を 手の中の一個のおむすびは 地球のように 重い (「おべんとうの歌」) 谷川さんの言葉はミクロの世界から見事にマクロの世界へと飛び、何だか「人ごとだと思えない」と感じずにいられない。 「カタールからアルジャジーラのニュースをお伝えします」――私は毎月数回、NHK・BS放送のニュース番組で、世界をしばしば震撼させるアルジャジーラニュース(アラビア語ニュース)を日本語に直して伝える仕事に携わっている。職種は、放送通訳という特殊な通訳業である。映像を見ながら翻訳原稿を書いているときは、ほとんど時間がなくて、ご飯もおにぎりか何かで済ませることが多い。 そんな慌しくせっぱ詰まった状況の中で、少しでもアラブの生の声を伝えようと翻訳作業に取り掛かるのだが、アルジャジーラが流す映像を見るたびに、いつもどん底に突き落とされたような無力さを感じる。 そこで谷川さんの言葉が頭に浮かんできて、「どうしたらいいのかな」と自問。映像の向こうで必死に危険を逃れようと逃げ回る人々や子供たちの姿と、高層ビルの一角で平穏に「おにぎり」を食べている自分の姿は、まるで谷川さんのあの詩だ。人と人が、幸せ、または不幸を果たして分かち合えるのだろうか。 しかし、こんな世の中でも平和を噛み締め、その意味について改めて考えさせられる瞬間がある。そして、そんな瞬間に出会った場所は意外に思われるかもしれないが、日本最古の遊園地「浅草花やしき」の中であった。 夏休みということもあって最愛の娘と仲の良い学校の友達を連れて、3人で「花やしき」へ遊びに行ったときだった。乗り物に夢中になっている娘とその友達を見守っていると、「ハナハナ海賊団」のステージショーが始まるというアナウンスが流れた。すると、たちまちステージの前とその周りは子供やその家族の観客で溢れ返っていったのだ。 夏の限定企画として「花やしき一座」という劇団が披露する物語だが、その内容は至ってシンプル。悪人である「海賊」と善人である「宝物の守り人」が戦う、という定番の「善と悪の戦い」の物語なのだ。ミュージカル的な演出と、愉快でコミカルな演技が人気を呼んでいるのだとか。 とはいえ、「海賊」と「守り人」が激しく戦う場面も見ものの一つとなっている。そして、ステージ上で個性的な衣装に身を包んだ役者の軽やかなダンスステップとスピーディーに進むストーリーの展開にみんなが釘付けになっていた。 いよいよ「善と悪のどちらが勝利するのか。『宝物』」は守り人たちが守り通せるのか」というクライマックスのシーンへと進む。こういう「善」と「悪」が戦う物語の通常の展開で言えば、最終的には「善」が決まって勝つ……というのは万国共通の結末だろう。ところが、「予想外」のまさかのエンディングになっていた。 なんと、これまで勇ましく懸命に戦ってきた「宝物の守り人」が争いの元となっていた宝物を海賊と分けることにしたのだ。意外な展開に動揺するばかりの私であったが、彼らは幸せを分かち合うというのである。 最後には、「争いを終わらせよう、共感こそ大切」などのような意味のセリフを海賊と守り人がそろって歌いながら、ストーリーが終わりを迎える。そして、「宝物はそもそも人に幸せを与えるためにある。であれば、海賊と分ければ、みんなで幸せになれる」と「宝物の守り人」は言う。おそらく世界のどこを探しても、こういうストーリーの設定、エンディングは見つからないだろう。 現実にはあり得ない話であろうが、「たとえ相手が敵であっても、他人と共感できなければ幸福にはなれない」ということだろう。私は「子供向けの話か」と思いながらも、平和への道となるヒントを教えられたような気がした。

超訳コーランの言葉で幸せの指南

<日本人にとって宗教はマイナスのイメージが強いが、イスラム教の経典コーランの中から日常生活にも役立つ一節を超訳で紹介> 日本で暮らしているとあまり実感できないが、生活の中で宗教が大きな意味を持っているという人は世界にたくさんいる。一方、当たり前だが、他国の文化や宗教を自国の尺度で見ようとすると、訳が分からなくなる。そして他文化や他宗教を理解するとなると、司馬遼太郎の言うように、「他国を知ろうとする場合、人間はみな同じだという高貴な甘さがなければ、決して分からないし、同時にその甘さだけだとみな間違ってしまう」。このあたりも、人の世の常である。 文化や宗教は、あらゆる歴史的事情とその出来事の下で集積されてきたものの結果だと考えられている。その文化と宗教は、無限とも言えるほど多くの破壊的事情を経験し、1つの枠の中に存在しながらも、互いに衝突や矛盾をし合っている。その矛盾やずれを整え、またその中に混入した異物や本質でない要素を取り払って、原形のようなものを取り出せないかという思いが最近、自分の中に増していくばかり。 イスラムの原形とは何か? その原形を取り出して見せることは可能なのか? そう考えたとき、真っ先に頭に浮かぶものはコーラン(イスラムの聖典)の存在である。 「イスラムの原形」や「宗教」という言葉を使うと、読んでいる人を必要以上に緊張させてしまい、「なんだか小難しい。やめとこ、やめとこ」と避けられてしまいそうである。 そこで、私が教えている大学で学生たちに質問してみた。「『宗教』という言葉はどの言語にもありますね。みなさんがそれを聞いたとき、マイナスの印象を持ちますか? それともプラスの印象を持ちますか?」 85人のうち3人だけが「プラスの印象を持つ」と答え、残りの82人は、迷わず「マイナスの印象を持つ」と答えた。圧倒的なマイナスイメージである。さらに、「なぜマイナスの印象を持つのか」と聞くと、「信じるものがなければ生きていけないようだから」「精神的に弱い感じがするから」という予想外の答えが返ってきた。 どうやら「宗教」という言葉とその意味合いは、イスラム教徒、とりわけアラブ人と日本人とでは根本的に違っているようである。このときの学生たちとのやりとりから、私には次のことが分かった。 日本人がイスラム教をとらえるとき、日本語の「宗教」という言葉を通して判断し、評価しているということだ。「宗教」と聞いただけでマイナスの印象を覚える日本人と、「宗教」という言葉に信頼や敬い、道徳などを連想するイスラム教徒は、どのようにしてコミュニケーションを取ればいいだろうか。 そこで、コーランの言葉を原文ないしは日本語訳で読んでも意味がつかめない人のために、私はある試みに挑んだ。コーランの数々の章の中から、誰にでも分かりやすそうなものをセレクトし、現代風に超訳することだ。いつの時代に読んでも、何歳になってもハッとさせられる、コーランの珠玉の言葉を超訳でここにご案内しよう。 「嫌なことこそ、良いことを運んでくれるかもしれない。また、好きなことこそ、悪いことを運んでくれるかもしれない」(雌牛章205) イスラム教徒が日常生活の中で繰り返し使う言葉であり、全ての物事には「定めがある」という意味になる。分かりやすくするために、日常生活でこの言葉の意味が現れる場面を挙げてみよう。就職しようと思ってもなかなかできず、また断わりの手紙が届いた。また就職試験に落ちた……残念。たいていのアラブ人はこうつぶやく。「もしかしたら、この嫌なことこそ、自分にとって良いことにつながるかもしれないな」 一方、同じ場面で日本人だったらどうなのだろう。例えば、「あんなに事前に準備だってしたし、面接の受け答えだって良かったはず。もしかして自分の外見が悪いから就職できなかったのだろうか。それとももっと積極的に発言すべきだったのか。通勤時間がかかりすぎることも関係しているだろうか。こんなんだから彼女ともうまくいかないんだろうな~。就職が決まらないなんてカッコ悪いし、親にも紹介できないなんて思うのかな~」と考えたりするのではないか。 就職試験に落ちた理由など知ることはできないのに、自分の想像だけでどんどん深みにはまっていく経験は誰にでもあるだろう。または物事が予定通りにいかなかったとき、怒りをぶつける先がなくて他人を責めたり、自分や周りに失望したりして、なんとか失敗の犯人を見つけようとすることもあるだろう。でもそんなことをしても、かえって傷を深めるだけだったりする。 アラブでは不幸や不都合な出来事が身に降りかかったとき、「なんでこうなる!」と怒りの反応をみせた後、「もしかしたらこの嫌なことこそ、自分にとって良いことにつながるかもしれない」とすぐに前向きに考えようとする。 そうすると気持ちが落ち着いてくる。そして、「まあ仕方ない。そうなるようになっていた。自分はやれるだけのことはやったさ。次に進もう」と思える。 もちろん、自分がやりたいことがかなわなくてもいい、と思う人はいない。しかし、この考え方をもって生活すれば、日常生活のさまざまな場面や物事をあるがままに受け入れることが身に付いてくる。どんな大変な場面でも、何があっても、「仕方がない」と前向きに、悪く言えばのんきになれるのだ。 問題のない人生などありえない。だから幸せな人生を手に入れるには、問題の全てが消えるまで待つのではなく、その問題を受け入れて前向きな姿勢で臨む──これがイスラムの原形が諭す、イスラム流の生き方である。

「平和は目的でなく、結果でしかない」──21世紀に生きる私たちへの中村哲医師のメッセージ

<アフガニスタンのイスラム教徒のために命がけで活動してくれた中村哲医師の言葉を今こそ心に刻みたい> 誠に悲痛な出来事である。アフガニスタンで活動する中村哲さんの訃報が伝えられて、何だか悲しくて悔しくてたまらない。同時に、同胞であるイスラム教徒のアフガニスタン人や、困窮を強いられている人々のために何もしてやれなかった自分が恥ずかしくて情けない。理屈ではなく義理と人情の人だった中村医師。見知らぬ土地や人々のために命がけで人生を捧げてきた中村先生のまっすぐな生き様と、その姿は眩しいほど神々しい。 「そこに住んでいる人たちと良い信頼関係があること。これが武器よりも一番大切なことだと思うんですよね」と語っていた中村医師。暴力や衝突などが絶えないこの世の中でも、絆や信頼関係が築く小さな平和を噛みしめ、その意味について問い続けていた。そして、その答えに出会った場所は意外にも世界に見捨てられたアフガンの地だった。 1986年から中村医師は、医師がいないアフガニスタンの山岳部で医療支援の活動を始めた。当時や、多くの地域では今も汚れた水しか飲むことができないアフガニスタン人のために「薬よりきれいな水を」と、井戸掘りや灌漑用水路の建設の支援事業に取り組んだ。 中村医師が取り組んだ灌漑用水路建設のおかげで、アフガンの荒れ果てた大地に少しずつ緑が戻ってきた。その上で、1万6500ヘクタールの土地に水を送り、およそ65万人分の食糧を確保することが可能となった。「生きる条件を整えることこそ、医師の務め」との信念を貫いた。 中村医師は、国際社会が強いるさまざまな形のダブルスタンダード(二重規範)を常に非難していた。2001年9月の同時多発テロを受けて、アメリカは10月にアフガニスタンに対して空爆を行った。そのときも中村医師は、超大国アメリカの武力による解決を批判した。アフガニスタンへの自衛隊派遣に対しても「有害無益」だとして批判的な考えだった。 中村医師が語る言葉とその行動に、私はなぜか「品格」という言葉を良く連想する。十数年も前に話題を呼んだ本「国家の品格」ならぬ人間の品格だ。そのためか、自分を含む多くのイスラム教徒は中村先生が語る奥深い言葉と行動に「真のイスラム教の理想郷」を感じるのである。平等や助け合いの精神、偽りなく生きることこそイスラムの根幹をなす教えとその思想であるが、中村先生はそれを体現していたように思えてならない。彼の生き様はまさにイスラム教が理想とするそのものだったと、多くのイスラム教徒は賞賛する。 アフガンの人々のために尽くした中村先生は、奥深い数々の言葉を残している。心に残るものを一つ選べと言われたら、これを挙げたい。 「みんなが泣いたり困っているのを見れば、誰だって『どうしたんですか』って言いたくなる。そういう人情に近いもんです」 「ちょっと悪いことをした人がいても、それを罰しては駄目。それを見逃して、信じる。罰する以外の解決方法があると考え抜いて、諦めないことが大切。決めつけない『素直な心』を持とう」 やはり1つだけは選べない。こうして中村医師の言葉を読み返してみると、コーラン(イスラム教の経典)にも記されている寛容や助け合いの精神とその感覚は中村医師が身をもって実践していたものだと分かる。 中村医師が言うには、昔も今も、また未来においても人間が生きていくうえで変わらないことがある。そのことについて自分の著書でこう締めくくっている。 しかし、変わらぬものは変わらない。江戸時代も、縄文の昔もそうであったろう。いたずらに時流に流されて大切なものを見失い、進歩という名の呪文に束縛され、生命を粗末にしてはならない。今大人たちが唱える「改革」や「進歩」の実態は、宙に縄をかけてそれをよじ登ろうとする魔術師に似ている。だまされてはいけない。「王様は裸だ」と叫んだ者は、見栄や先入観、利害関係から自由な子供であった。それを次世代に期待する。「天、共に在り」 今の世界の多くの国では、「王様は裸だ」と言えない状況になっている。また、国際社会は偽善であふれている。欧米の人々が言う人権、平等、自由などは偽善にしか見えない。 一方、イスラム社会も同じように偽善であふれている。アラブ諸国の政府や国民の多くは、言うこととやることがまったく矛盾している。イスラム教は平和な宗教のはずだ。しかし、イスラム教徒である私たちの生活はまったく平和とは言えない状況である。相手の考えを尊重し、共存共栄することや、異教徒を受け入れる、また嫌なことをされても寛大な心でそれを赦すことこそ、イスラム教が最も大切にしている理念だ。にもかかわらず、われわれの社会は暴力に訴える人であふれている。 中村医師の数々のメッセージは、イスラム教徒の私たちにも平和の本当の意味を諭しているように思う。中村医師は「自分のしていることは平和運動ではない。農業ができて家族が食べていければ、結果として平和になる……平和は結果でしかない」と語っていた。つまり、平和は目的というよりプロセスにすべきである。なぜなら、平和を目的にしてしまうと、関係者や当事者のそれぞれのエゴの下で争いが起きてしまうのだ。 12月2日に中村医師が西日本新聞に寄せた文章でこうつづっていた。「国土を省みぬ無責任な主張、華やかな消費生活への憧れ、終わりのない内戦、襲いかかる温暖化による干ばつ――終末的な世相の中で、アフガニスタンは何を啓示するのか。見捨てられた小世界で心温まる絆を見いだす意味を問い、近代化のさらに彼方を見つめる」 終末的世相の中で、異国の地で心温まる絆を見出した中村医師は私たちに何を諭し、そして何を啓示したのかを見極めたいものだ。