「一個のおむすび」と浅草花やしきで平和について考えた
<中東では日本の現状からは想像もできない戦乱が続いている。子どもたちを連れて訪れた遊園地で筆者が教えられた、平和へのヒントとは?>
先日、本屋で面白い本を手に入れた。あまりに面白いから、皆さんにその本を紹介したいと思う。「朝のかたち」(角川文庫)で、詩人の谷川俊太郎さんが書いた詩集だ。
そうあの廃坑になった町では
おべんとうのある子は
おべんとうを食べていたそして
おべんとうのない子は
風の強い校庭で
黙ってぶらんこにのっていた
その短い記事と写真を
何故こんなにはっきり
記憶しているのだろう
どうすることもできぬ
くやしさが
泉のように湧きあがる
どうやってわかちあうのか
幸せを
どうやってわかちあうのか
不幸を
手の中の一個のおむすびは
地球のように
重い
(「おべんとうの歌」)
谷川さんの言葉はミクロの世界から見事にマクロの世界へと飛び、何だか「人ごとだと思えない」と感じずにいられない。
「カタールからアルジャジーラのニュースをお伝えします」――私は毎月数回、NHK・BS放送のニュース番組で、世界をしばしば震撼させるアルジャジーラニュース(アラビア語ニュース)を日本語に直して伝える仕事に携わっている。職種は、放送通訳という特殊な通訳業である。映像を見ながら翻訳原稿を書いているときは、ほとんど時間がなくて、ご飯もおにぎりか何かで済ませることが多い。
そんな慌しくせっぱ詰まった状況の中で、少しでもアラブの生の声を伝えようと翻訳作業に取り掛かるのだが、アルジャジーラが流す映像を見るたびに、いつもどん底に突き落とされたような無力さを感じる。
そこで谷川さんの言葉が頭に浮かんできて、「どうしたらいいのかな」と自問。映像の向こうで必死に危険を逃れようと逃げ回る人々や子供たちの姿と、高層ビルの一角で平穏に「おにぎり」を食べている自分の姿は、まるで谷川さんのあの詩だ。人と人が、幸せ、または不幸を果たして分かち合えるのだろうか。
夏休みということもあって最愛の娘と仲の良い学校の友達を連れて、3人で「花やしき」へ遊びに行ったときだった。乗り物に夢中になっている娘とその友達を見守っていると、「ハナハナ海賊団」のステージショーが始まるというアナウンスが流れた。すると、たちまちステージの前とその周りは子供やその家族の観客で溢れ返っていったのだ。
夏の限定企画として「花やしき一座」という劇団が披露する物語だが、その内容は至ってシンプル。悪人である「海賊」と善人である「宝物の守り人」が戦う、という定番の「善と悪の戦い」の物語なのだ。ミュージカル的な演出と、愉快でコミカルな演技が人気を呼んでいるのだとか。
とはいえ、「海賊」と「守り人」が激しく戦う場面も見ものの一つとなっている。そして、ステージ上で個性的な衣装に身を包んだ役者の軽やかなダンスステップとスピーディーに進むストーリーの展開にみんなが釘付けになっていた。
いよいよ「善と悪のどちらが勝利するのか。『宝物』」は守り人たちが守り通せるのか」というクライマックスのシーンへと進む。こういう「善」と「悪」が戦う物語の通常の展開で言えば、最終的には「善」が決まって勝つ……というのは万国共通の結末だろう。ところが、「予想外」のまさかのエンディングになっていた。
なんと、これまで勇ましく懸命に戦ってきた「宝物の守り人」が争いの元となっていた宝物を海賊と分けることにしたのだ。意外な展開に動揺するばかりの私であったが、彼らは幸せを分かち合うというのである。
最後には、「争いを終わらせよう、共感こそ大切」などのような意味のセリフを海賊と守り人がそろって歌いながら、ストーリーが終わりを迎える。そして、「宝物はそもそも人に幸せを与えるためにある。であれば、海賊と分ければ、みんなで幸せになれる」と「宝物の守り人」は言う。おそらく世界のどこを探しても、こういうストーリーの設定、エンディングは見つからないだろう。
現実にはあり得ない話であろうが、「たとえ相手が敵であっても、他人と共感できなければ幸福にはなれない」ということだろう。私は「子供向けの話か」と思いながらも、平和への道となるヒントを教えられたような気がした。